源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第30回 「夕顔」より その8

二条に戻り御帳に臥せる源氏。夕顔を惟光に託してしまい胸せきあぐる思いでいる。行方を捜しており訪れた頭中将は、源氏が取り繕った理由に、心をよぎるものがある。喪に服する源氏、惟光、右近は泣く。

人々、「いづこよりおはしますにか、悩ましげに見えさせ給ふ」など

 人々、「いづこよりおはしますにか、悩ましげに見えさせ給ふ」など言へど、御帳(みちゃう)のうちに入り給ひて、胸を押さへて思ふに、いといみじければ、「などて乗り添ひて行かざりつらむ。生きかへりたらむ時、いかなるこゝちせむ。『見捨てて行きあかれにけり』と、つらくや思はむ」と、心まどひのうちにも思ほすに、御胸せきあぐるこゝちし給ふ。御ぐしも痛く、身も熱きこゝちして、いと苦しくまどはれ給へば、「かくはかなくて、我もいたづらになりぬるなめり」と、おぼす。

日たかくなれど、起き上がり給はねば、人々あやしがりて、

 日たかくなれど、起き上がり給はねば、人々あやしがりて、御かゆなどそそのかし聞ゆれど、苦しくて、いと心ぼそくおぼさるゝに、内より御使ひあり。きのふえ尋ね出で奉らざりしより、おぼつかながらせ給ふ。おほい殿の君だち参り給へど、頭(とう)の中将ばかりを、(源氏)「立ちながら、こなたに入り給へ」と宣ひて、みすのうちながら宣ふ。(源氏)「めのとにて侍る者の、この五月(さつき)のころほひより重くわづらひ侍りしが、かしらそり忌む事うけなどして、そのしるしにや、よみがへりたりしを、このごろまたおこりて、弱くなむなりにたる、今ひとたびとぶらひ見よと申したりしかば、いときなきよりなづさひし者の、いまはのきざみに、つらしとや思はむ、と思う給へてまかれりしに、その家なりける下人(しもびと)の病(やまひ)しけるが、俄に出であへでなくなりにけるを、おぢ憚りて、日を暮らしてなむ取り出で侍りけるを、聞きつけ侍りしかば、神わざなるころいと不便(ふびん)なる事と、思う給へかしこまりて、え参らぬなり。この暁より、いはぶきやみにや侍らむ、かしらいと痛くて、苦しく侍れば、いと無礼(むらい)にて聞ゆること」など宣ふ。

中将、「さらば、さるよしをこそ奏し侍らめ。

 中将、「さらば、さるよしをこそ奏し侍らめ。よべも御遊びに、かしこく求め奉らせ給ひて、御気色あしく侍りき」と、聞え給ひて、立ち返り、(中将)「いかなる行(い)き触(ふ)れにかゝらせ給ふぞや。のべやらせ給ふ事こそ 、まことと思う給へられね」と言ふに、胸つぶれ給ひて、(源氏)「かくこまかにはあらで、たゞおぼえぬけがらひに触れたるよしを奏し給へ。いとこそたいだいしく侍れ」と、つれなく宣へど、心のうちには言ふかひなく悲しき事をおぼすに、御こゝちも悩ましければ、人に目も見合はせ給はず。蔵人(くらんど)の弁(べん)を召し寄せて、まめやかにかゝるよしを奏せさせ給ふ。おほい殿などにも、かゝる事ありてえ参らぬ御せうそこなど聞え給ふ。

日暮れて惟光参れり。「かゝるけがらひあり」と宣ひて、

 日暮れて惟光参れり。「かゝるけがらひあり」と宣ひて、参る人々も皆立ちながらまかづれば、人しげからず。召し寄せて、(源氏)「いかにぞ、今はと見はてつや」と宣ふまゝに、袖を御顔に押しあてて泣き給ふ。惟光も泣く泣く、「今は限りにこそは物し給ふめれ。ながながと籠(こも)り侍らむも便(びん)なきを、あすなむ日よろしく侍れば、とかくの事、いと尊き老僧のあひ知りて侍るに、言ひ語らひつけ侍りぬる」と聞ゆ。(源氏)「添ひたりつる女はいかに」と宣へば、(惟光)「それなね又え生くまじく侍るめる。(右近)『われも遅れじ』とまどひ侍りて、けさは谷に落ち入りぬとなむ見給へつる。(右近)『かのふるさと人(びと)に告げやらむ』と申せど、『しばし思ひ静めよ。事のさま思ひめぐらして』となむ、こしらへおき侍りつる」と語り聞ゆるまゝに、いといみじとおぼして、(源氏)「我もいとこゝち悩ましく、いかなるべきにかとなむおぼゆる」と宣ふ。(惟光)「何かさらに思ほしものせさせ給ふ。さるべきにこそよろづの事侍らめ。人にも漏らさじと思う給ふれば、惟光おりたちて、よろづは物し給り」など申す。(源氏)「さかし。さ皆思ひなせど、浮かびたる心のすさびに、人をいたづらになしつるかごとおひぬべきが、いとからきなり。少将の命婦などにも聞かすな。あま君、ましてかやうの事などいさめらるゝを、心はづかしくなむおぼゆべき」と、口がため給ふ。(惟光)「さらぬ法師ばらなどにも、みな、言ひなすさま異(こと)に侍り」と聞ゆるにぞ、かゝり給へる。

ほの聞く女房など、「あやしく、何事ならむ。

 ほの聞く女房など、「あやしく、何事ならむ。けがらひのよし宣ひて、内にも参り給はず。又かくさゝめき嘆き給ふ」と、ほのぼのあやしがる。(源氏)「さらにことなくしなせ」と、そのほどの作法宣へど、(惟光)「なにか。ことごとしくすべきにも侍らず」とて立つが、いと悲しくおぼさるれば、(源氏)「便(びん)なしと思ふべけれど、いま一度(ひとたび)かのなきがらを見ざらむが、いといぶせかるべきを、馬にて物せむ」と宣ふを、いとたいだいしき事とは思へど、(惟光)「さおぼされむはいかゞせむ。はやおはしまして、夜ふけぬさきに帰らせおはしませ」と申せば、このごろの御やつれにまうけ給へる狩りの御さうぞく着かへなどして出で給ふ。御こゝちかきくらし、いみじく堪へがたければ、かくあやしき道に出で立ちても、危(あやう)かりし物懲(ご)りに、「いかにせむ」と、おぼしわづらへど、なほ悲しさのやる方なく、「たゞ今のからを見では、またいつの世にかありしかたちをも見む」と、おぼし念じて、例の大夫随身を具して出で給ふ、みち遠くおぼゆ。

十七日の月さし出でて、かはらのほど、御さきの火もほのかなるに、

 十七日の月さし出でて、かはらのほど、御さきの火もほのかなるに、鳥辺野のかたなど見やりたるほどなど、物むつかしきも、何ともおぼえ給はず、かき乱るこゝちし給ひて、おはし着きぬ。あたりさへすごきに、板屋のかたはらに堂たてて、行へる尼の住まひ、いとあはれなり。御燈明の影ほのかにすきて見ゆ。その屋には女ひとり泣く声のみして、外のかたに、法師ばら二三人、物語しつゝ、わざとの声たてぬ念仏ぞする。寺々の初夜も皆おこなひはてて、いとしめやかなり。清水のかたぞ、光り多く見え、人のけはひもしげかりける。この尼ぎみの子なる大徳の、こゑ尊くて、経うちよみたるに、涙の残りなくおぼさる。
 入り給へれば、火とりそむけて、右近は屏風へだてて臥したり。いかにわびしからむ、と、見給ふ。
 恐ろしきけもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだいさゝか変りたる所なし。手をとらへて、(源氏)「我にいま一たび声をだに聞かせ給へ。いかなる昔の契りにかありけむ、しばしのほどに心を尽くしてあはれに思ほえしを、うち捨ててまどはし給ふが、いみじきこと」と、声も惜しまず泣き給ふこと、かぎりなし。大徳たちも、誰とは知らぬに、あやしと思ひて、みな涙おとしけり。

[お話]上賀茂の曲水の宴のこと

歌は言葉のスポーツ

「『言葉のスポーツ』というのは折口信夫の言葉ですけれども、なるほどそうですね。歌合とか曲水の宴なんかでも、あるいは男女の相聞なんかでもそうですね。言葉による、言ってみれば試合であり、スポーツであるわけです。魂のやりとりであり、勝ち負けを決めるわけです。だから真剣勝負の要素を深く持つ場面もあるし、もう少し気を許して楽しめる場面もあるわけです。」

<若草>
益荒男と我を思ひて嫁ぎこし若草の妻も年ふりにけり

コンテンツ名 源氏物語全講会 第30回 「夕顔」より その8
収録日 2003年4月17日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

平成15年春期講座

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