源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第31回 「夕顔」より その9

『死者の書』の話に触れ講義。今一度夕顔の亡骸を見たいと惟光と訪れる。帰路の加茂川の堤のあたりでは落馬さえする。源氏の「もろむき心」女性の「ひたむき心」、現代になぜ古典を読むか問う。

はじめに

折口信夫の『死者の書』について

「今の世間の多くの人たちは、『死者の書』というのは何だろうと。幾らか文芸に関心のある人は、エジプトの『死者の書』を連想なさるわけですが、折口信夫の『死者の書』を知っている人は非常に少ないわけです。しかし、その少数の知っている人は、大変な打ち込み方をするわけです。あれは読んでいて引きずり込まれる不思議な力のある小説ですから。だから、あれがアニメーションになるということは、僕はいろんな意味で大事なことだと思うんです。」

右近を、(源氏)「いざ二条の院へ」と宣へど、

 右近を、(源氏)「いざ二条の院へ」と宣へど、(右近)「年ごろ、をさなく侍りしより、かた時たち離れ奉らず、慣れ聞えつる人に、にはかに別れ奉りて、いづこにか帰り侍らむ。いかになり給ひにきとか、人にも言ひ侍らむ。悲しき事をばさるものにて、人に言ひさわがれ侍らむが、いみじきこと」と言ひて、泣きまどひて、(右近)「けぶりにたぐひて慕ひ参りなむ」といふ。(源氏)「ことわりなれど、さなむ世の中はある。別れといふもの悲しからぬはなし。とあるも、かゝるも、同じ命の限りあるものになむある。思ひなぐさめて、我を頼め」と宣ひこしらへても、(源氏)「かくいふ我が身こそは、生きとまるまじきこゝちすれ」と宣ふも、頼もしげなしや。

惟光、「よは明けがたになり侍りぬらむ。はや帰らせ給ひなむ」

 惟光、「よは明けがたになり侍りぬらむ。はや帰らせ給ひなむ」と聞ゆれば、かへり見のみせられて、胸もつとふたがりて、出で給ふ。道いと露けきに、いとゞしき朝霧(あさぎり)に、いづこともなくまどふこゝちし給ふ。

ありしながらうち臥したりつるさま、うちかはし給へりしが、

 ありしながらうち臥したりつるさま、うちかはし給へりしが、我が御くれなゐの御ぞの、着られたりつるなど、いかなりけむ契りにかと、道すがら思さる。御馬にもはかばかしく乗り給ふまじき御さまなれば、また惟光そひ助けておはしまさするに、堤(つつみ)の程にて御馬よりすべり降りて、いみじく御こゝちまどひければ、(源氏)「かゝる道の空にて、はふれぬべきにやあらむ。さらにえ行(い)き着くまじきこゝちなむする」と宣ふに、惟光こゝちまどひて、「わがはかばかしくは、さ宣ふとも、かゝる道にゐて出で奉るべきかは」と思ふに、いと心あわたゞしければ、川の水にて手を洗ひて、清水の観音を念じ奉りても、すべなく思ひまどふ。君もしひて御心をおこして、心のうちに仏を念じ給ひて、又とかく助けられ給ひてなむ、二条の院へ帰り給ひける。

あやしう夜ふかき御ありきを、人々、「見苦しきわざかな。

 あやしう夜ふかき御ありきを、人々、「見苦しきわざかな。このごろ、例よりも静心(しづこころ)なき御しのびありきの、しきるなかにも、きのふの御気色のいと悩ましうおぼしたりしに、いかでかくたどりありき給ふらむ」と、嘆きあへり。

まことに、臥し給ひぬるまゝに、いといたく苦しがり給ひて、

 まことに、臥し給ひぬるまゝに、いといたく苦しがり給ひて、ふつかみかになりぬるに、むげに弱るやうにし給ふ。内にも聞こしめし嘆くこと限りなし。御祈り、かたがたにひまなくのゝしる。祭り、祓(はら)へ、修法(ずほふ)など、言ひ尽くすべくもあらず。「世にたぐひなく、ゆゝしき御ありさまなれば、世に長くおはしますまじきにや」と、あめの下の人のさわぎなり。 

苦しき御こゝちにも、かの右近を召し寄せて、

 苦しき御こゝちにも、かの右近を召し寄せて、局(つぼね)など近く賜(たま)ひて、さぶらはせ給ふ。惟光、こゝちもさわぎまどへど、思ひのどめて、この人のたつきなしと思ひたるを、もてなし助けつゝ、さぶらはす。君は、いさゝかひまありておぼさるる時は、召し出でて使ひなどすれば、ほどなく交らひつきたり。ぶくいと黒くして、かたちなどよからねど、かたはに見苦しからぬ若人(わかうど)なり。
 (源氏)「あやしう短かかりける御契りにひかされて、我も世にえあるまじきなめり。年頃の頼み失ひて、心ぼそく思ふらむなぐさめにも、もしながらへば、よろづにはぐくまむとこそ思ひしか、ほどもなく又たちそひぬべきが、口をしくもあるべきかな」と、忍びやかに、宣ひて、弱げに泣き給へば、いふかひなき事をばおきて、いみじく惜し、と思ひ聞ゆ。

殿のうちの人、足を空にて思ひまどふ。

 殿のうちの人、足を空にて思ひまどふ。うちより御使ひ、雨の脚(あし)よりもけに繁(しげ)し。おぼし嘆きおはしますを聞き給ふに、いとかたじけなくて、せめて強くおぼしなる。大殿もけいめいし給ひて、おとゞ日々に渡り給ひつゝ、さまざまの事をせさせ給ふしるしにや、廿日あまりいと重くわづらひ給ひつれど、ことなるなごり残らず、おこたるさまに見え給ふ。けがらひ忌み給ひしも、ひとつに満ちぬる夜(よ)なれば、おぼつかながらせ給ふ御心わりなくて、内の御とのゐ所に参り給ひなどす。大殿、わが御車にて、迎へ奉り給ひて、御物忌み、何やと、むつかしうつゝしませ奉り給ふ。我にもあらず、あらぬ世によみがへりたるやうに、しばしはおぼえ給ふ。

九月廿日の程にぞ、おこたりはて給ひて、いといたくおもやせ給へれど、

 九月廿日の程にぞ、おこたりはて給ひて、いといたくおもやせ給へれど、なかなかいみじくなまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ泣き給ふ。見奉りとがむる人もありて、「御もののけなめり」など言ふもあり。
 右近を召し出でて、のどやかなる夕暮に物語りなどし給ひて、(源氏)「なほ、いとなむあやしき。などて、その人と知られじとは、隠い給へりしぞ。まことにあまの子なりとも、さばかりに思ふを知らで、隔て給ひしかばなむ、つらかりし」と宣へば、(右近)「などてか深く隠し聞え給ふ事は侍らむ。いつの程にてかは、何ならぬ御なのりを聞え給はむ。はじめより、あやしうおぼえぬさまなりし御ことなれば、『うつゝともおぼえずなむある』と宣ひて、御名隠しも、『さばかりにこそは』と聞え給うながら、『なほざりにこそ紛らはし給ふらめ』となむ、うき事におぼしたりし」と聞ゆれば、(源氏)「あいなかりける心くらべどもかな。我は、しか隔つる心もなかりき。たゞかやうに人に許されぬふるまひをなむ、まだ慣らはぬ事なる。うちに諌(いさ)め宣はするをはじめ、つゝむこと多かる身にて、はかなく人にたはぶれごとを言ふも、所せう取りなし、うるさき身の有様になむあるを、はかなかりし夕べより、あやしう心にかゝりて、あながちに見奉りしも、『かゝるべき契りにこそはものし給ひけめ』と思ふも、あはれになむ、又うちかへし辛(つら)うおぼゆる。かう長かるまじきにては、などさしも心にしみて哀れとおぼえ給ひけむ。なほ詳しく語れ。今はなにごとを隠すべきぞ。

コンテンツ名 源氏物語全講会 第31回 「夕顔」より その9
収録日 2003年4月24日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

平成15年春期講座

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