源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第114回 「篝火」~「野分」その1

前半は「篝火」。源氏は近江の君の噂を聞き、内大臣を批判し、玉葛は源氏に感謝する。秋になり、源氏は篝火を歌の中に引き込んで、思いのほどを詠む。源氏、源中将(夕霧)、頭中将(柏木)、弁少将(柏木の弟)が奏楽し、玉葛は聞いている。後半は「野分」。野分の風が強く、(秋好)中宮は秋の庭を心配し、中将の君(夕霧)は紫の上をかいま見る。夕霧は三条の宮(夕霧の祖母)を見舞う。

このごろ、世の人の言種に、「内の大殿の今姫君」と、

篝火

  このごろ、世の人の言種に、「内の大殿の今姫君」と、ことに触れつつ言ひ散らすを、源氏の大臣聞こしめして、
 「ともあれ、かくもあれ、人見るまじくて籠もりゐたらむ女子を、なほざりのかことにても、さばかりにものめかし出でて、かく、人に見せ、言ひ伝へらるるこそ、心得ぬことなれ。いと際々しうものしたまふあまりに、深き心をも尋ねずもて出でて、心にもかなはねば、かくはしたなきなるべし。よろづのこと、もてなしからにこそ、なだらかなるものなめれ」
 と、いとほしがりたまふ。 

.かかるにつけても、「げによくこそと、親と聞こえながらも、

 かかるにつけても、「げによくこそと、親と聞こえながらも、年ごろの御心を知りきこえず、馴れたてまつらましに、恥ぢがましきことやあらまし」と、対の姫君思し知るを、右近もいとよく聞こえ知らせけり。
  憎き御心こそ添ひたれど、さりとて、御心のままに押したちてなどもてなしたまはず、いとど深き御心のみまさりたまへば、やうやうなつかしううちとけきこえたまふ。

秋になりぬ。初風涼しく吹き出でて、

 秋になりぬ。初風涼しく吹き出でて、背子が衣もうらさびしき心地したまふに、忍びかねつつ、いとしばしば渡りたまひて、おはしまし暮らし、御琴なども習はしきこえたまふ。
 五、六日の夕月夜は疾く入りて、すこし雲隠るるけしき、荻の音もやうやうあはれなるほどになりにけり。御琴を枕にて、もろともに添ひ臥したまへり。かかる類ひあらむやと、うち嘆きがちにて夜更かしたまふも、人の咎めたてまつらむことを思せば、渡りたまひなむとて、御前の篝火のすこし消えがたなるを、御供なる右近の大夫を召して、灯しつけさせたまふ。

いと涼しげなる遣水のほとりに、けしきことに広ごり臥したる檀の木の下に、

 いと涼しげなる遣水のほとりに、けしきことに広ごり臥したる檀の木の下に、打松おどろおどろしからぬほどに置きて、さし退きて灯したれば、御前の方は、いと涼しくをかしきほどなる光に、女の御さま見るにかひあり。御髪の手あたりなど、いと冷やかにあてはかなる心地して、うちとけぬさまにものをつつましと思したるけしき、いとらうたげなり。帰り憂く思しやすらふ。
 「絶えず人さぶらひて、灯しつけよ。夏の月なきほどは、庭の光なき、いとものむつかしく、おぼつかなしや」
 とのたまふ。

「篝火にたちそふ恋の煙こそ世には絶えせぬ炎なりけれ

 「篝火にたちそふ恋の煙こそ
  世には絶えせぬ炎なりけれ
 いつまでとかや。ふすぶるならでも、苦しき下燃えなりけり」

 と聞こえたまふ。女君、「あやしのありさまや」と思すに、

 「行方なき空に消ちてよ篝火の
  たよりにたぐふ煙とならば
 人のあやしと思ひはべらむこと」

 とわびたまへば、「くはや」とて、出でたまふに、東の対の方に、おもしろき笛の音、箏に吹きあはせたり。
 「中将の、例のあたり離れぬどち遊ぶにぞありける。頭中将にこそあなれ。いとわざとも吹きなる音かな」
 とて、立ちとまりたまふ。

御消息、「こなたになむ、いと影涼しき篝火に、とどめられてものする」

 御消息、「こなたになむ、いと影涼しき篝火に、とどめられてものする」
 とのたまへれば、うち連れて三人参りたまへり。
 「風の音秋になりけりと、聞こえつる笛の音に、忍ばれでなむ」
 とて、御琴ひき出でて、なつかしきほどに弾きたまふ。源中将は、「盤渉調」にいとおもしろく吹きたり。頭中将、心づかひして出だし立てがたうす。「遅し」とあれば、弁少将、拍子打ち出でて、忍びやかに歌ふ声、鈴虫にまがひたり。二返りばかり歌はせたまひて、御琴は中将に譲らせたまひつ。げに、かの父大臣の御爪音に、をさをさ劣らず、はなやかにおもしろし。
 「御簾のうちに、物の音聞き分く人ものしたまふらむかし。今宵は、盃など心してを。盛り過ぎたる人は、酔ひ泣きのついでに、忍ばぬこともこそ」
 とのたまへば、姫君もげにあはれと聞きたまふ。
 絶えせぬ仲の御契り、おろかなるまじきものなればにや、この君たちを人知れず目にも耳にもとどめたまへど、かけてさだに思ひ寄らず、この中将は、心の限り尽くして、思ふ筋にぞ、かかるついでにも、え忍び果つまじき心地すれど、さまよくもてなして、をさをさ心とけても掻きわたさず。

中宮の御前に、秋の花を植ゑさせたまへること、常の年よりも見所多く、

野分

  中宮の御前に、秋の花を植ゑさせたまへること、常の年よりも見所多く、色種を尽くして、よしある黒木赤木の籬を結ひまぜつつ、同じき花の枝ざし、姿、朝夕露の光も世の常ならず、玉かとかかやきて作りわたせる野辺の色を見るに、はた、春の山も忘られて、涼しうおもしろく、心もあくがるるやうなり。
 春秋の争ひに、昔より秋に心寄する人は数まさりけるを、名立たる春の御前の花園に心寄せし人びと、また引きかへし移ろふけしき、世のありさまに似たり

これを御覧じつきて、里居したまふほど、御遊びなどもあらまほしけれど、

 これを御覧じつきて、里居したまふほど、御遊びなどもあらまほしけれど、八月は故前坊の御忌月なれば、心もとなく思しつつ明け暮るるに、この花の色まさるけしきどもを御覧ずるに、野分、例の年よりもおどろおどろしく、空の色変りて吹き出づ。
 花どものしをるるを、いとさしも思ひしまぬ人だに、あなわりなと思ひ騒がるるを、まして、草むらの露の玉の緒乱るるままに、御心惑ひもしぬべく思したり。おほふばかりの袖は、秋の空にしもこそ欲しげなりけれ。暮れゆくままに、ものも見えず吹きまよはして、いとむくつけければ、御格子など参りぬるに、うしろめたくいみじと、花の上を思し嘆く。

南の御殿にも、前栽つくろはせたまひける折にしも、かく吹き出でて、

 南の御殿にも、前栽つくろはせたまひける折にしも、かく吹き出でて、もとあらの小萩、はしたなく待ちえたる風のけしきなり。折れ返り、露もとまるまじく吹き散らすを、すこし端近くて見たまふ。
 大臣は、姫君の御方におはしますほどに、中将の君参りたまひて、東の渡殿の小障子の上より、妻戸の開きたる隙を、何心もなく見入れたまへるに、女房のあまた見ゆれば、立ちとまりて、音もせで見る。
 御屏風も、風のいたく吹きければ、押し畳み寄せたるに、見通しあらはなる廂の御座にゐたまへる人、ものに紛るべくもあらず、気高くきよらに、さとにほふ心地して、春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す。あぢきなく、見たてまつるわが顔にも移り来るやうに、愛敬はにほひ散りて、またなくめづらしき人の御さまなり。
 御簾の吹き上げらるるを、人びと押へて、いかにしたるにかあらむ、うち笑ひたまへる、いといみじく見ゆ。花どもを心苦しがりて、え見捨てて入りたまはず。御前なる人びとも、さまざまにものきよげなる姿どもは見わたさるれど、目移るべくもあらず。
 「大臣のいと気遠くはるかにもてなしたまへるは、かく見る人ただにはえ思ふまじき御ありさまを、いたり深き御心にて、もし、かかることもやと思すなりけり」
 と思ふに、けはひ恐ろしうて、立ち去るにぞ、西の御方より、内の御障子引き開けて渡りたまふ。

「いとうたて、あわたたしき風なめり。御格子下ろしてよ。

 「いとうたて、あわたたしき風なめり。御格子下ろしてよ。男どもあるらむを、あらはにもこそあれ」
 と聞こえたまふを、また寄りて見れば、もの聞こえて、大臣もほほ笑みて見たてまつりたまふ。親ともおぼえず、若くきよげになまめきて、いみじき御容貌の盛りなり。
 女もねびととのひ、飽かぬことなき御さまどもなるを、身にしむばかりおぼゆれど、この渡殿の格子も吹き放ちて、立てる所のあらはになれば、恐ろしうて立ち退きぬ。今参れるやうにうち声づくりて、簀子の方に歩み出でたまへれば、
 「さればよ。あらはなりつらむ」
 とて、「かの妻戸の開きたりけるよ」と、今ぞ見咎めたまふ。
 「年ごろかかることのつゆなかりつるを。風こそ、げに巌も吹き上げつべきものなりけれ。さばかりの御心どもを騒がして。めづらしくうれしき目を見つるかな」とおぼゆ。

人びと参りて、「いといかめしう吹きぬべき風にはべり。

 人びと参りて、
 「いといかめしう吹きぬべき風にはべり。艮の方より吹きはべれば、この御前はのどけきなり。馬場の御殿、南の釣殿などは、危ふげになむ」
 とて、とかくこと行なひののしる。
 「中将は、いづこよりものしつるぞ」
 「三条の宮にはべりつるを、『風いたく吹きぬべし』と、人びとの申しつれば、おぼつかなさに参りはべりつる。かしこには、まして心細く、風の音をも、今はかへりて、若き子のやうに懼ぢたまふめれば。心苦しさに、まかではべりなむ」
 と申したまへば、
 「げに、はや、まうでたまひね。老いもていきて、また若うなること、世にあるまじきことなれど、げに、さのみこそあれ」
 など、あはれがりきこえたまひて、
 「かく騒がしげにはべめるを、この朝臣さぶらへばと、思ひたまへ譲りてなむ」
 と、御消息聞こえたまふ

道すがらいりもみする風なれど、うるはしくものしたまふ君にて、

 道すがらいりもみする風なれど、うるはしくものしたまふ君にて、三条宮と六条院とに参りて、御覧ぜられたまはぬ日なし。内裏の御物忌などに、えさらず籠もりたまふべき日より外は、いそがしき公事、節会などの、暇いるべく、ことしげきにあはせても、まづこの院に参り、宮よりぞ出でたまひければ、まして今日、かかる空のけしきにより、風のさきにあくがれありきたまふもあはれに見ゆ。

宮、いとうれしう、頼もしと待ち受けたまひて、

宮、いとうれしう、頼もしと待ち受けたまひて、
 「ここらの齢に、まだかく騒がしき野分にこそあはざりつれ」
 と、ただわななきにわななきたまふ。
 大きなる木の枝などの折るる音も、いとうたてあり。御殿の瓦さへ残るまじく吹き散らすに、
 「かくてものしたまへること」
 と、かつはのたまふ。そこら所狭かりし御勢ひのしづまりて、この君を頼もし人に思したる、常なき世なり。今もおほかたのおぼえの薄らぎたまふことはなけれど、内の大殿の御けはひは、なかなかすこし疎くぞありける。

中将、夜もすがら荒き風の音にも、すずろにものあはれなり。

 中将、夜もすがら荒き風の音にも、すずろにものあはれなり。心にかけて恋しと思ふ人の御ことは、さしおかれて、ありつる御面影の忘られぬを、
 「こは、いかにおぼゆる心ぞ。あるまじき思ひもこそ添へ。いと恐ろしきこと」
 と、みづから思ひ紛らはし、異事に思ひ移れど、なほ、ふとおぼえつつ、
 「来し方行く末、ありがたくもものしたまひけるかな。かかる御仲らひに、いかで東の御方、さるものの数にて立ち並びたまひつらむ。たとしへなかりけりや。あな、いとほし」
 とおぼゆ。大臣の御心ばへを、ありがたしと思ひ知りたまふ。
 人柄のいとまめやかなれば、似げなさを思ひ寄らねど、「さやうならむ人をこそ、同じくは、見て明かし暮らさめ。限りあらむ命のほども、今すこしはかならず延びなむかし」と思ひ続けらる。

暁方に風すこししめりて、村雨のやうに降り出づ。

 暁方に風すこししめりて、村雨のやうに降り出づ。
 「六条院には、離れたる屋ども倒れたり」
 など人びと申す。
 「風の吹きまふほど、広くそこら高き心地する院に、人びと、おはします御殿のあたりにこそしげけれ、東の町などは、人少なに思されつらむ」
 とおどろきたまひて、まだほのぼのとするに参りたまふ。
 道のほど、横さま雨いと冷やかに吹き入る。空のけしきもすごきに、あやしくあくがれたる心地して、
 「何ごとぞや。またわが心に思ひ加はれるよ」と思ひ出づれば、「いと似げなきことなりけり。あな、もの狂ほし」
 と、とざまかうざまに思ひつつ、東の御方に、まづ参うでたまへれば、懼ぢ極じておはしけるに、とかく聞こえ慰めて、人召して、所々つくろはすべきよしなど言ひおきて、南の御殿に参りたまへれば、まだ御格子も参らず。
 おはしますに当れる高欄に押しかかりて、見わたせば、山の木どもも吹きなびかして、枝ども多く折れ伏したり。草むらはさらにもいはず、桧皮、瓦、所々の立蔀、透垣などやうのもの乱りがはし。
 日のわづかにさし出でたるに、憂へ顔なる庭の露きらきらとして、空はいとすごく霧りわたれるに、そこはかとなく涙の落つるを、おし拭ひ隠して、うちしはぶきたまへれば、
 「中将の声づくるにぞあなる。夜はまだ深からむは」
 とて、起きたまふなり。何ごとにかあらむ、聞こえたまふ声はせで、大臣うち笑ひたまひて、
 「いにしへだに知らせたてまつらずなりにし、暁の別れよ。今ならひたまはむに、心苦しからむ」
 とて、とばかり語らひきこえたまふけはひども、いとをかし。女の御いらへは聞こえねど、ほのぼの、かやうに聞こえ戯れたまふ言の葉の趣きに、「ゆるびなき御仲らひかな」と、聞きゐたまへり。

御格子を御手づから引き上げたまへば、気近きかたはらいたさに、

 御格子を御手づから引き上げたまへば、気近きかたはらいたさに、立ち退きてさぶらひたまふ。
 「いかにぞ。昨夜、宮は待ちよろこびたまひきや」
 「しか。はかなきことにつけても、涙もろにものしたまへば、いと不便にこそはべれ」
 と申したまへば、笑ひたまひて、
 「今いくばくもおはせじ。まめやかに仕うまつり見えたてまつれ。内大臣は、こまかにしもあるまじうこそ、愁へたまひしか。人柄あやしうはなやかに、男々しき方によりて、親などの御孝をも、いかめしきさまをば立てて、人にも見おどろかさむの心あり、まことにしみて深きところはなき人になむ、ものせられける。さるは、心の隈多く、いとかしこき人の、末の世にあまるまで、才類ひなく、うるさながら。人として、かく難なきことはかたかりける」
 などのたまふ。

コンテンツ名 源氏物語全講会 第114回 「篝火」~「野分」その1
収録日 2008年9月6日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

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