源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第122回 「真木柱」より その2

「百人一首」から本文に。髭黒の大将の屋敷は落ちぶれたような感じで、奥方は非常に苦悩深い状態。暗く雪も降っているときに出かけようとする大将に、火取りの灰をかけてしまう。翌日、髭黒は玉葛の許へ行き、髭黒の屋敷では修法などをいろいろと勤め騒いでいる。髭黒はたまに屋敷へ帰っても、子どもたちばかりと会っている。

小倉百人一首の魅力

・庶民の農耕生活を背景にした歌

秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ

・小倉百人一首を選んだ藤原定家の葛藤

・百人一首関連の名著、『百人一首一夕話』(尾崎 雅嘉著 岩波文庫)

・上代特殊仮名遣い甲類・乙類の議論について

・丸谷才一さんの『新々百人一首』の「はしがき」のこと

有馬山 猪名の笹原 風吹けばいでそよ人を 忘れやはする 大弐三位(だいにのさんみ)

夏草の思ひしなへて偲ぶらむ妹が門見むなびけこの山  柿本人麻呂

・強調の「さ行音」は自然の中のデーモン・スピリットの名残りをとどめている(柳田国男)

住まひなどの、あやしうしどけなく、もののきよらもなくやつして、

 住まひなどの、あやしうしどけなく、もののきよらもなくやつして、いと埋れいたくもてなしたまへるを、玉を磨ける目移しに、心もとまらねど、年ごろの心ざしひき替ふるものならねば、心には、いとあはれと思ひきこえたまふ。

「昨日今日の、いと浅はかなる人の御仲らひだに、よろしき際になれば、

 「昨日今日の、いと浅はかなる人の御仲らひだに、よろしき際になれば、皆思ひのどむる方ありてこそ見果つなれ。いと身も苦しげにもてなしたまひつれば、聞こゆべきこともうち出で聞こえにくくなむ。
 年ごろ契りきこゆることにはあらずや。世の人にも似ぬ御ありさまを、見たてまつり果てむとこそは、ここら思ひしづめつつ過ぐし来るに、えさしもあり果つまじき御心おきてに、思し疎むな。
 幼き人びともはべれば、とざまかうざまにつけて、おろかにはあらじと聞こえわたるを、女の御心の乱りがはしきままに、かく恨みわたりたまふ。ひとわたり見果てたまはぬほど、さもありぬべきことなれど、まかせてこそ、今しばし御覧じ果てめ。
 宮の聞こし召し疎みて、さはやかにふと渡したてまつりてむと思しのたまふなむ、かへりていと軽々しき。まことに思しおきつることにやあらむ、しばし勘事したまふべきにやあらむ」
 と、うち笑ひてのたまへる、いとねたげに心やまし。

御召人だちて、仕うまつり馴れたる木工の君、

 御召人だちて、仕うまつり馴れたる木工の君、中将の御許などいふ人びとだに、ほどにつけつつ、「やすからずつらし」と思ひきこえたるを、北の方は、うつし心ものしたまふほどにて、いとなつかしううち泣きてゐたまへり。
 「みづからを、ほけたり、ひがひがし、とのたまひ、恥ぢしむるは、ことわりなることになむ。

宮の御ことをさへ取り混ぜのたまふぞ、漏り聞きたまはむはいとほしう、

 宮の御ことをさへ取り混ぜのたまふぞ、漏り聞きたまはむはいとほしう、憂き身のゆかり軽々しきやうなる。耳馴れにてはべれば、今はじめていかにもものを思ひはべらず」
 とて、うち背きたまへる、らうたげなり。
 いとささやかなる人の、常の御悩みに痩せ衰へ、ひはづにて、髪いとけうらにて長かりけるが、わけたるやうに落ち細りて、削ることもをさをさしたまはず、涙にまつはれたるは、いとあはれなり。
 こまかに匂へるところはなくて、父宮に似たてまつりて、なまめいたる容貌したまへるを、もてやつしたまへれば、いづこのはなやかなるけはひかはあらむ。

「宮の御ことを、軽くはいかが聞こゆる。恐ろしう、

 「宮の御ことを、軽くはいかが聞こゆる。恐ろしう、人聞きかたはになのたまひなしそ」とこしらへて、
 「かの通ひはべる所の、いとまばゆき玉の台に、うひうひしう、きすくなるさまにて出で入るほども、かたがたに人目たつらむと、かたはらいたければ、心やすく移ろはしてむと思ひはべるなり。
 太政大臣の、さる世にたぐひなき御おぼえをば、さらにも聞こえず、心恥づかしう、いたり深うおはすめる御あたりに、憎げなること漏り聞こえば、いとなむいとほしう、かたじけなかるべき。
 なだらかにて、御仲よくて、語らひてものしたまへ。宮に渡りたまへりとも、忘るることははべらじ。とてもかうても、今さらに心ざしの隔たることはあるまじけれど、世の聞こえ人笑へに、まろがためにも軽々しうなむはべるべきを、年ごろの契り違へず、かたみに後見むと、思せ」
 と、こしらへ聞こえたまへば、
 「人の御つらさは、ともかくも知りきこえず。世の人にも似ぬ身の憂きをなむ、宮にも思し嘆きて、今さらに人笑へなることと、御心を乱りたまふなれば、いとほしう、いかでか見えたてまつらむ、となむ。

大殿の北の方と聞こゆるも、異人にやはものしたまふ。

 大殿の北の方と聞こゆるも、異人にやはものしたまふ。かれは、知らぬさまにて生ひ出でたまへる人の、末の世に、かく人の親だちもてないたまふつらさをなむ、思ほしのたまふなれど、ここにはともかくも思はずや。もてないたまはむさまを見るばかり」
 とのたまへば、
 「いとようのたまふを、例の御心違ひにや、苦しきことも出で来む。大殿の北の方の知りたまふことにもはべらず。いつき女のやうにてものしたまへば、かく思ひ落とされたる人の上までは知りたまひなむや。人の御親げなくこそものしたまふべかめれ。かかることの聞こえあらば、いとど苦しかるべきこと」
 など、日一日入りゐて、語らひ申したまふ。

暮れぬれば、心も空に浮きたちて、いかで出でなむと思ほすに、

 暮れぬれば、心も空に浮きたちて、いかで出でなむと思ほすに、雪かきたれて降る。かかる空にふり出でむも、人目いとほしう、この御けしきも、憎げにふすべ恨みなどしたまはば、なかなかことつけて、われも迎へ火つくりてあるべきを、いとおいらかに、つれなうもてなしたまへるさまの、いと心苦しければ、いかにせむ、と思ひ乱れつつ、格子などもさながら、端近ううち眺めてゐたまへり。
 北の方けしきを見て、
 「あやにくなめる雪を、いかで分けたまはむとすらむ。夜も更けぬめりや」
 とそそのかしたまふ。「今は限り、とどむとも」と思ひめぐらしたまへるけしき、いとあはれなり。
 「かかるには、いかでか」
 とのたまふものから、
 「なほ、このころばかり。心のほどを知らで、とかく人の言ひなし、大臣たちも、左右に聞き思さむことを憚りてなむ、とだえあらむはいとほしき。思ひしづめて、なほ見果てたまへ。ここになど渡しては、心やすくはべりなむ。かく世の常なる御けしき見えたまふ時は、ほかざまに分くる心も失せてなむ、あはれに思ひきこゆる」
 など、語らひたまへば、
 「立ちとまりたまひても、御心のほかならむは、なかなか苦しうこそあるべけれ。よそにても、思ひだにおこせたまはば、袖の氷も解けなむかし」
 など、なごやかに言ひゐたまへり。

御火取り召して、いよいよ焚きしめさせたてまつりたまふ。

 御火取り召して、いよいよ焚きしめさせたてまつりたまふ。みづからは、萎えたる御衣ども、うちとけたる御姿、いとど細う、か弱げなり。しめりておはする、いと心苦し。御目のいたう泣き腫れたるぞ、すこしものしけれど、いとあはれと見る時は、罪なう思して、
 「いかで過ぐしつる年月ぞ」と、「名残なう移ろふ心のいと軽きぞや」とは思ふ思ふ、なほ心懸想は進みて、そら嘆きをうちしつつ、なほ装束したまひて、小さき火取り取り寄せて、袖に引き入れてしめゐたまへり。
 なつかしきほどに萎えたる御装束に、容貌も、かの並びなき御光にこそ圧さるれど、いとあざやかに男々しきさまして、ただ人と見えず、心恥づかしげなり。

侍に、人びと声して、「雪すこし隙あり。夜は更けぬらむかし」

 侍に、人びと声して、
 「雪すこし隙あり。夜は更けぬらむかし」
 など、さすがにまほにはあらで、そそのかしきこえて、声づくりあへり。
 中将、木工など、「あはれの世や」などうち嘆きつつ、語らひて臥したるに、正身は、いみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥したまへりと見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふほど、人のややみあふるほどもなう、あさましきに、あきれてものしたまふ。
 さるこまかなる灰の、目鼻にも入りて、おぼほれてものもおぼえず。払ひ捨てたまへど、立ち満ちたれば、御衣ども脱ぎたまひつ。
 うつし心にてかくしたまふぞと思はば、またかへりみすべくもあらずあさましけれど、
 「例の御もののけの、人に疎ませむとするわざ」
 と、御前なる人びとも、いとほしう見たてまつる。
 立ち騷ぎて、御衣どもたてまつり替へなどすれど、そこらの灰の、鬢のわたりにも立ちのぼり、よろづの所に満ちたる心地すれば、きよらを尽くしたまふわたりに、さながら参うでたまふべきにもあらず。
 「心違ひとはいひながら、なほめづらしう、見知らぬ人の御ありさまなりや」と爪弾きせられ、疎ましうなりて、あはれと思ひつる心も残らねど、「このころ、荒立てては、いみじきこと出で来なむ」と思ししづめて、夜中になりぬれど、僧など召して、加持参り騒ぐ。呼ばひののしりたまふ声など、思ひ疎みたまはむにことわりなり。

夜一夜、打たれ引かれ、泣きまどひ明かしたまひて、

 夜一夜、打たれ引かれ、泣きまどひ明かしたまひて、すこしうち休みたまへるほどに、かしこへ御文たてまつれたまふ。
 「昨夜、にはかに消え入る人のはべしにより、雪のけしきもふり出でがたく、やすらひはべしに、身さへ冷えてなむ。御心をばさるものにて、人いかに取りなしはべりけむ」
 と、きすくに書きたまへり。

 「心さへ空に乱れし雪もよに
  ひとり冴えつる片敷の袖
 堪へがたくこそ」

 と、白き薄様に、つつやかに書いたまへれど、ことにをかしきところもなし。手はいときよげなり。才かしこくなどぞものしたまひける。
 尚侍の君、夜がれを何とも思されぬに、かく心ときめきしたまへるを、見も入れたまはねば、御返りなし。男、胸つぶれて、思ひ暮らしたまふ。

北の方は、なほいと苦しげにしたまへば、御修法など始めさせたまふ。

 北の方は、なほいと苦しげにしたまへば、御修法など始めさせたまふ。心のうちにも、「このころばかりだに、ことなく、うつし心にあらせたまへ」と念じたまふ。「まことの心ばへのあはれなるを見ず知らずは、かうまで思ひ過ぐすべくもなきけ疎さかな」と、思ひゐたまへり。

 

暮るれば、例の、急ぎ出でたまふ。御装束のことなども、

 暮るれば、例の、急ぎ出でたまふ。御装束のことなども、めやすくしなしたまはず、世にあやしう、うちあはぬさまにのみむつかりたまふを、あざやかなる御直衣なども、え取りあへたまはで、いと見苦し。
 昨夜のは、焼けとほりて、疎ましげに焦れたるにほひなども、ことやうなり。御衣どもに移り香もしみたり。ふすべられけるほどあらはに、人も倦じたまひぬべければ、脱ぎ替へて、御湯殿など、いたうつくろひたまふ。
 木工の君、御薫物しつつ、

 「ひとりゐて焦がるる胸の苦しきに
  思ひあまれる炎とぞ見じ
 名残なき御もてなしは、見たてまつる人だに、ただにやは」

 と、口おほひてゐたる、まみ、いといたし。されど、「いかなる心にて、かやうの人にものを言ひけむ」などのみぞおぼえたまひける。情けなきことよ。

 「憂きことを思ひ騒げばさまざまに
  くゆる煙ぞいとど立ちそふ
 いとことのほかなることどもの、もし聞こえあらば、中間になりぬべき身なめり」

 と、うち嘆きて出でたまひぬ。
 一夜ばかりの隔てだに、まためづらしう、をかしさまさりておぼえたまふありさまに、いとど心を分くべくもあらずおぼえて、心憂ければ、久しう籠もりゐたまへり。

修法などし騒げど、御もののけこちたくおこりてののしるを聞きたまへば、

 修法などし騒げど、御もののけこちたくおこりてののしるを聞きたまへば、「あるまじき疵もつき、恥ぢがましきこと、かならずありなむ」と、恐ろしうて寄りつきたまはず。
 殿に渡りたまふ時も、異方に離れゐたまひて、君達ばかりをぞ呼び放ちて見たてまつりたまふ。女一所、十二、三ばかりにて、また次々、男二人なむおはしける。近き年ごろとなりては、御仲も隔たりがちにてならはしたまへれど、やむごとなう、立ち並ぶ方なくてならひたまへれば、「今は限り」と見たまふに、さぶらふ人びとも、「いみじう悲し」と思ふ。

コンテンツ名 源氏物語全講会 第122回 「真木柱」より その2
収録日 2009年3月14日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

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