源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第180回 「御法」より その1

これからの卷について触れ、「御法」に。危篤状態は脱しが病弱になった紫の上は、出家を望むが、源氏は許さない。長い時をかけて書かせた法華経を供養し、明石の君、花散里に最後が近いこと歌にして贈る。夏には、明石の中宮とは語り合う。「紫の縁(ゆかり)」に触れて、この回を終わる。

紫の上、いたうわづらひたまひし御心地の後、

紫の上、いたうわづらひたまひし御心地の後、いと篤しくなりたまひて、そこはかとなく悩みわたりたまふこと久しくなりぬ。
いとおどろおどろしうはあらねど、年月重なれば、頼もしげなく、いとどあえかになりまさりたまへるを、院の思ほし嘆くこと、限りなし。しばしにても後れきこえたまはむことをば、いみじかるべく思し、みづからの御心地には、この世に飽かぬことなく、うしろめたきほだしだにまじらぬ御身なれば、あながちにかけとどめまほしき御命とも思されぬを、年ごろの御契りかけ離れ、思ひ嘆かせたてまつらむことのみぞ、人知れぬ御心のうちにも、ものあはれに思されける。後の世のためにと、尊きことどもを多くせさせたまひつつ、「いかでなほ本意あるさまになりて、しばしもかかづらはむ命のほどは、行ひを紛れなく」と、たゆみなく思しのたまへど、さらに許しきこえたまはず。
さるは、わが御心にも、しか思しそめたる筋なれば、かくねむごろに思ひたまへるついでにもよほされて、同じ道にも入りなむと思せど、一度、家を出でたまひなば、仮にもこの世を顧みむとは思しおきてず、後の世には、同じ蓮の座をも分けむと、契り交はしきこえたまひて、頼みをかけたまふ御仲なれど、ここながら勤めたまはむほどは、同じ山なりとも、峰を隔てて、あひ見たてまつらぬ住み処にかけ離れなむことをのみ思しまうけたるに、かくいと頼もしげなきさまに悩み篤いたまへば、いと心苦しき御ありさまを、今はと行き離れむきざみには捨てがたく、なかなか、山水の住み処濁りぬべく、思しとどこほるほどに、ただうちあさへたる、思ひのままの道心起こす人びとには、こよなう後れたまひぬべかめり。
御許しなくて、心一つに思し立たむも、さま悪しく本意なきやうなれば、このことによりてぞ、女君は、恨めしく思ひきこえたまひける。わが御身をも、罪軽かるまじきにやと、うしろめたく思されけり。

年ごろ、

年ごろ、私の御願にて書かせたてまつりたまひける『法華経』千部、いそぎて供養じたまふ。わが御殿と思す二条院にてぞしたまひける。七僧の法服など、品々賜はす。物の色、縫ひ目よりはじめて、きよらなること、限りなし。おほかた何ごとも、いといかめしきわざどもをせられたり。
ことことしきさまにも聞こえたまはざりければ、詳しきことどもも知らせたまはざりけるに、女の御おきてにてはいたり深く、仏の道にさへ通ひたまひける御心のほどなどを、院はいと限りなしと見たてまつりたまひて、ただおほかたの御しつらひ、何かのことばかりをなむ、営ませたまひける。楽人、舞人などのことは、大将の君、取り分きて仕うまつりたまふ。

内裏、春宮、

内裏、春宮、后の宮たちをはじめたてまつりて、御方々、ここかしこに御誦経、捧物などばかりのことをうちしたまふだに所狭きに、まして、そのころ、この御いそぎを仕うまつらぬ所なければ、いとこちたきことどもあり。「いつのほどに、いとかくいろいろ思しまうけけむ。げに、石上の世々経たる御願にや」とぞ見えたる。
花散里と聞こえし御方、明石なども渡りたまへり。南東の戸を開けておはします。寝殿の西の塗籠なりけり。北の廂に、方々の御局どもは、障子ばかりを隔てつつしたり。

三月の十日なれば、

三月の十日なれば、花盛りにて、空のけしきなども、うららかにものおもしろく、仏のおはすなる所のありさま、遠からず思ひやられて、ことなり。深き心もなき人さへ、罪を失ひつべし。薪こる讃嘆の声も、そこら集ひたる響き、おどろおどろしきを、うち休みて静まりたるほどだにあはれに思さるるを、まして、このころとなりては、何ごとにつけても、心細くのみ思し知る。明石の御方に、三の宮して、聞こえたまへる。

「惜しからぬこの身ながらもかぎりとて

「惜しからぬこの身ながらもかぎりとて薪尽きなむことの悲しさ」

御返り、心細き筋は、後の聞こえも心後れたるわざにや、そこはかとなくぞあめる。

「薪こる思ひは今日を初めにてこの世に願ふ法ぞはるけき」

夜もすがら、

夜もすがら、尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色々、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、もののあはれもおもしろさも残らぬほどに、陵王の舞ひ手急になるほどの末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに、皆人の脱ぎかけたるものの色々なども、もののをりからにをかしうのみ見ゆ。
親王たち、上達部の中にも、ものの上手ども、手残さず遊びたまふ。上下心地よげに、興あるけしきどもなるを見たまふにも、残り少なしと身を思したる御心のうちには、よろづのことあはれにおぼえたまふ。

・遊びこそ、日本人の固有の伝統的な魂の活性化につながってゆく

昨日、例ならず起きゐたまへりし名残にや、

昨日、例ならず起きゐたまへりし名残にや、いと苦しうして臥したまへり。年ごろ、かかるものの折ごとに、参り集ひ遊びたまふ人びとの御容貌ありさまの、おのがじし才ども、琴笛の音をも、今日や見聞きたまふべきとぢめなるらむ、とのみ思さるれば、さしも目とまるまじき人の顔どもも、あはれに見えわたされたまふ。
まして、夏冬の時につけたる遊び戯れにも、なま挑ましき下の心は、おのづから立ちまじりもすらめど、さすがに情けを交はしたまふ方々は、誰れも久しくとまるべき世にはあらざなれど、まづ我一人行方知らずなりなむを思し続くる、いみじうあはれなり。
こと果てて、おのがじし帰りたまひなむとするも、遠き別れめきて惜しまる。

花散里の御方に、

花散里の御方に、

「絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを」

御返り、

「結びおく契りは絶えじおほかたの残りすくなき御法なりとも」

やがて、このついでに、不断の読経、懺法など、たゆみなく、尊きことどもせさせたまふ。御修法は、ことなるしるしも見えでほども経ぬれば、例のことになりて、うちはへさるべき所々、寺々にてぞせさせたまひける。

夏になりては、例の暑さにさへ、

夏になりては、例の暑さにさへ、いとど消え入りたまひぬべき折々多かり。そのことと、おどろおどろしからぬ御心地なれど、ただいと弱きさまになりたまへば、むつかしげに所狭く悩みたまふこともなし。さぶらふ人びとも、いかにおはしまさむとするにか、と思ひよるにも、まづかきくらし、あたらしう悲しき御ありさまと見たてまつる。

かくのみおはすれば、

かくのみおはすれば、中宮、この院にまかでさせたまふ。東の対におはしますべければ、こなたにはた待ちきこえたまふ。儀式など、例に変らねど、この世のありさまを見果てずなりぬるなどのみ思せば、よろづにつけてものあはれなり。名対面を聞きたまふにも、その人、かの人など、耳とどめて聞かれたまふ。上達部など、いと多く仕うまつりたまへり。

久しき御対面のとだえを、

久しき御対面のとだえを、めづらしく思して、御物語こまやかに聞こえたまふ。院入りたまひて、
「今宵は、巣離れたる心地して、無徳なりや。まかりて休みはべらむ」
とて、渡りたまひぬ。起きゐたまへるを、いとうれしと思したるも、いとはかなきほどの御慰めなり。
「方々におはしましては、あなたに渡らせたまはむもかたじけなし。参らむこと、はたわりなくなりにてはべれば」
とて、しばらくはこなたにおはすれば、明石の御方も渡りたまひて、心深げにしづまりたる御物語ども聞こえ交はしたまふ。

上は、御心のうちに思しめぐらすこと多かれど、

上は、御心のうちに思しめぐらすこと多かれど、さかしげに、亡からむ後などのたまひ出づることもなし。ただなべての世の常なきありさまを、おほどかに言少ななるものから、あさはかにはあらずのたまひなしたるけはひなどぞ、言に出でたらむよりもあはれに、もの心細き御けしきは、しるう見えける。宮たちを見たてまつりたまうても、
「おのおのの御行く末を、ゆかしく思ひきこえけるこそ、かくはかなかりける身を惜しむ心のまじりけるにや」
とて、涙ぐみたまへる御顔の匂ひ、いみじうをかしげなり。「などかうのみ思したらむ」と思すに、中宮、うち泣きたまひぬ。ゆゆしげになどは聞こえなしたまはず、もののついでなどにぞ、年ごろ仕うまつり馴れたる人びとの、ことなるよるべなういとほしげなる、この人、かの人、
「はべらずなりなむ後に、御心とどめて、尋ね思ほせ」
などばかり聞こえたまひける。御読経などによりてぞ、例のわが御方に渡りたまふ。

・『源氏物語』について、古くから言われていることに「紫の縁(ゆかり)」という言葉がある。

「紫式部、桐壺の帝、桐壺の女御、藤壺」だけでも、脈絡をもっていることはわかるが、そう簡単に言えないし、そればかりで終わってしまえない。
さらに、古代からの日本人の心の中の歌と物語の深い絡み合いの根底に流れ続けている、一つの大きなテーマではないかという、感じがしてしまう。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る   万葉集(額田王)

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも 万葉集(大海人皇子)

紫のひともとゆゑに 武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る 古今集

・「紫の縁(ゆかり)」というものは、日本人の歌と物語の伝承の上で、一つの脈絡があったような気がする。それに関わってくるのが藤原氏。

わが里に大雪降れり大原の古りにし里に落らまくは後  天武天皇

わが岡のおかみに言ひて落らしめし雪のくだけしそこに散りけむ 藤原夫人

藤は水と密接な結びつきをもっている、「天つ水」

藤原道長と『源氏物語』

青海のうづまさ寺に来て見れば身もなげつべき花の蔭かな 香川景樹

・歌と物語の底流になっている紫への感動、紫の感覚

コンテンツ名 源氏物語全講会 第180回 「御法」より その1
収録日 2013年4月20日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

平成25年春期講座

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