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「源氏物語巻名歌」から

帚木 (ははきぎ)

帚木の心を知らで園原の道にあやなく惑ひぬるかな 光源氏

数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木 空蝉

・歌の背景
光源氏十七歳。雨夜の品定めの後、「中の品の女」に興味を持った源氏は、空蝉を知る。再度の逢瀬を願う源氏に対して、伊予の介の若い後妻である空蝉は、自らの立場もわきまえて拒む。
・講義より
帚木というのは、その言葉自身はほうきの材料になる木ということですが、こういう歌に出てくる帚木というのは、言ってみれば絵空事、歌空事的な存在の帚木なんですね。こういうものが、中古から中世の歌の世界、文学の世界には幾つかあるわけです。

帚木の心を知らで園原の道にあやなく惑ひぬるかな

その帚木の心、真実の心を知ることができなくて、心がわからなくて、信濃の国の園原、歌枕の園原じゃないけれども、行けども行けども果てもない園原の中の道に、何とも言ようもなく行き迷ってしまったことだ。会おうとしても、ようとして姿を見せてくれない帚木のようなその人のために、我が心は、自分の心は、とめどもなく立ち迷っていることだというふうな歌ですね。

数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木 、と聞えたり。

こんな貧しい、見すぼらしい伏屋に生い立ちました名のつらさに――伏屋と帚木とを歌の中に詠み込んでいるわけですね。伏屋というのは、そういう身分の卑しい者が住む貧しい小屋のようなものですね。地に低く建っている小屋のようなものですが、ふせいお伏廬、ふせや伏屋。そういう伏屋に生い立ちました自分の身のはかなさに、この世にあるにもあらず消えていくはかない帚木でございます。私はそんな女でございますというふうに申し上げた。

空蝉 (うつせみ)

空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな 光源氏

空蝉の羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな 空蝉

・歌の背景
光源氏十七歳。空蝉の残していった小袖の元で休もうとするが、源氏は眠れず、歌を詠む。空蝉は、夫を持つ身として源氏を受け入れられない耐えがたい思いを、源氏が歌を書き贈ってきた紙の片端に記す。
・講義より
空蝉というのは蝉の脱け殻ですが、同時に、蝉そのものにも意味が広がっていきますが、『空蝉の身をかへてけるこのもとに』――蝉の殻からご本体が抜け出すわけです。朝早く地面から抜け出てきて、木の幹にがしっと爪を立てて、背中がぱっと割れて出てくるわけです。

空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな

空蝉が身を変えて、そして去ってしまった木のもとに立って、なお、その人柄がしみじみと懐かしく恋しく思われることよというふうな歌ですね。

空蝉の羽に置く露の木隠れて忍び忍びに濡るる袖かな

その蝉の羽に置く露、露は涙と常に連動しているわけです。露と言えばすぐ涙ですが、その蝉の羽に置く露が木の間に隠れて人の目にはつかないけれども、しのびしのびにその涙にぬれる我が衣の袖でございます。

夕顔 (ゆうがお)

心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花 夕顔

寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔 光源氏

・歌の背景
光源氏十七歳。源氏あてに届けられた、夕顔の花の添えられた扇と歌に、心を惹かれる。届けた主を調べさせて、興ざめしそうな境遇の女だろうとは思うものの、自分を目指して歌をよこした心のほどは憎からず思い歌を返す。
・講義より

心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花

「心あてにそれかとぞ見る」、推量して、あの方かしらと思います。つまり推測して、源氏の君様かと思います。まだ全くお目にかかったことも実際にはないわけですけれども、あの評判に聞いている源氏の君様かと心あてに思いまする。「白露の光そへたる夕がほの花」、この下の句がなかなかよくきいていますね。夕顔の花に白露が宿って一層輝きを添えた、その夕影に見る夕顔の花、そのようなすばらしいお方様。ここでは、女の方の歌では、源氏を夕顔に見立てた形で歌っているわけですね。そして源氏の君様かと私は推測いたしますというふうに歌っている。

寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔

「よりてこそそれかとも見め」、もっと近づいて、それかとはっきりと見届けたいものだ。「たそがれにほのぼの見つる花の夕顔」、「黄昏時」に、これも前に言いましたね。「誰そ彼」、「彼は誰」、朝夕のおぼろおぼろの光線の暗い、物の姿、物の実態が容易には見届けられなくなったようなとき、それを「誰そ彼時」、あるいは「彼は誰時」。後に、「誰そ彼」は夕方、「彼は誰」は明け方だというふうな窮屈なあれが出てきますけれども、もともとはそんな区別はない。物の姿がおぼろおぼろとして、実態がはっきり見えないような薄明の時刻ですね。朝にも晩にも言います。それがだんだんと「誰そ彼」は夕方、「彼は誰」は明け方というふうになってくるわけですが、ほのぼのと見たその黄昏時の花の夕顔。つまり朝顔、昼顔、夕顔という花の姿を人間の顔と連想させて言っている感じ方ですね。

若紫 (わかむらさき)

手につみていつしかも見むのねに通ひける野辺の若草 光源氏

・歌の背景
光源氏十八歳。北山の行者の許に出かけた際、ふと見かけた藤壺の宮に生き写しの少女。この少女をこれから自分が細やかに仕込んでいけばいいとは思うものの、胸に期待しているよりも劣っているのではないだろうかと、源氏は気掛かりになる。
・講義より

手につみていつしかも見むのねに通ひける野辺の若草

手元に置いて、いつになったらつくづくと見ることができるだろう。細やかに会うことができるだろう。「あの紫のねに通ひける」、紫草といいますのは、根が濃い紫の染料を含んでいて、それをつぶして紫の染め汁を抽出するわけです。花は大体白い花。たまに赤い花が咲くこともありますけれども。それが日本の在来種の紫草ですが、その紫の根に、紫の縁に続いている、その野辺の若草。藤壺と縁続きになっていく野辺の若草。今のところ、まだ野辺に可憐に咲いている。将来についてはまだ何か気掛かりなところもあるか弱い若草。

末摘花 (すゑつむはな)

なつかしき色ともなしに何にこのすゑつむ花を袖に触れけむ 光源氏

・歌の背景
光源氏十八歳。末摘花の琴を忍び聞いた源氏は、頭中将と競って末摘花と逢う。しかし、雪の明るさに晒された末摘花の鼻に驚くことに。末摘花から贈られた文と装束の様に呆れ果てた源氏は、文の端に、手習いのつもりで歌を書き散らかす。
・講義より

なつかしき色ともなしに何にこのすゑつむ花を袖に触れけむ 色濃き花と見しかども

懐かしい色とては何にもなくて、どういうわけで、このすゑつむ花、すゑつむ花というのはもちろん掛け言葉、臙脂、口紅なんかをとる紅花ですね。一番先っぽに花が咲いて、そこの部分を摘んで、摘みためて紅をとるわけですから、すゑつむ花ですね。一番先っぽを摘んでいく。つまり紅花の名前、紅花の異名ですが、それとあの鼻の先の赤い姫君とを掛けて言っているわけです。心懐かしく思われる色ということでもないのに、一体どうして「このすゑつむ花を袖にふれけむ」、末摘花と袖触れ合ったのであろうか、えにし縁を結んだのであろうか。

葵 (あおい)

はかなしや人のかざせるゆゑ神の許しの今日を待ちける 源典侍

かざしける心ぞあだにおもほゆる八十氏人になべて逢ふ日を 光源氏

・歌の背景
光源氏二十二歳。びっしりと車が立ち並んでいる賀茂の葵祭の日、女の方から車の場所を譲ってくるのでどんな好色者だろうとみると、「せっかくお目にかかったのに、その注連の内には入りかねております」と、「逢ふ日」に掛けて、あの典侍が歌を贈ってきた。源氏は素っ気なく歌を返す。
・講義より

はかなしや人のかざせるゆゑ神の許しの今日を待ちける 注連の内には

「はかなしや人のかざせる葵」、もちろん「逢う日」と「葵」を掛け言葉で言っているわけです。はかないことでございます。人がかざしていらっしゃる葵、葵祭りのシンボルですね。葵のかざし、枝をかざすわけです。その葵のかざしじゃありませんけれども、「葵ゆゑ」、お逢いになった。つまり源氏の君が、その車に、だれかわからないけれども、若い女の人を乗せているということはわかっているわけです。その気配からわかっているわけです。だから「人のかざせる葵ゆゑ」、あなた様がかざしなさっていらっしゃる葵のかんざし、それじゃありませんけれども、女の人とお逢いになった印の、「神の許しの今日を待ちける」、その歴然とした気配のあなた様とこうしてお逢いするのは、神様の許しの今日を機会としてお待ち申し上げておりましたわ。でも、実は私は落胆しております。私以前にお逢いになった方とご一緒なんですもの、というふうな思いですね。だから「はかなしや」と言っているわけです。せっかくお逢いすることができたのに、はかないことでございます。かざしになさっている葵、それじゃございませんけれども、既にお逢いになった方とご一緒でございますね。神の許しの日の今日を待っておりましたのに、私は落胆いたしましたわという思いです。
「注連の内には」、つまり前の斎宮の榊の内というのと同じことです。

かざしける心ぞあだにおもほゆる八十氏人になべて逢ふ日を

「かざしける心ぞあだにおもほゆる」、あの逢う日、葵をかざした、逢う日をかざした、そのことが、今となっては私の心にあだめいたこととして思い出される。「八十氏人になべて逢ふ日を」、今日という日は、今日という葵祭の日は、八十氏人に広くおしなべて逢う日なんだ。別にあなたからそんなに文句をつけられるわけはないね、というふうな答えですね。

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