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「源氏物語巻名歌」から

篝火 (かがりび)

篝火にたちそふ恋の煙こそ世には絶えせぬ炎なりけれ 光源氏

行方なき空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば 玉鬘

・歌の背景
光源氏三十六歳。源氏と玉鬘は、琴を枕に臥して、互いに歌をとりかわす。源氏が引き上げるとき、消えかかっている篝火を明るくさせる。
・講義より

篝火にたちそふ恋の煙こそ世には絶えせぬ炎なりけれ

「篝火にたちそふ恋の煙こそ」、篝火が燃えていて、それに添って立ちのぼっている煙、それはぶすぷすいぶるわけですね。心が燃えるわけです。そして煙が立つわけです。それを恋の思いに見たてて、篝火に添って立ち上る、恋い焦がれる思い、人に恋い焦がれる思いのその煙こそ、「世には絶えせぬ」、こういう男女の間柄の物思いには必ずつきまとってくる恋の炎(ほむら)であることだ。人を恋う焦がれ心の炎であることだな。会話なんかではなかなか言いにくい胸の内の思いをこんなふうに歌に託して言っているわけですね。

行方なき空に消ちてよ篝火のたよりにたぐふ煙とならば

あなた様の胸の苦しき下燃えとやらは、それは、行方も知らない空の煙のようにして消しておしまいになってくださいよ。二句で切れて、「篝火のたよりにたぐふ煙とならば」、篝火の光を頼りにする、それじゃありませんけれども、あなた様のところへ私がこうして身をお寄せ申し上げることは、篝火の便りではありませんけれども便りとして、こうして身をよせましたそのことが、はかない空の煙でございますならば。「篝火にたちそふ恋の煙こそ」と思い入れ深く源氏が歌っているのを、自分の歌では肩透かしを食わせたような形で、玉鬘が歌っているわけですね。「篝火のたよりにたぐふ煙とならば」、あなた様のおそばに身を寄せましたその私に対する恋い焦がれる思いとおっしゃるのならば、身を寄せました縁につけて恋の煙が立ちのぼるような思いとおっしゃるのならば、それは行方も知らぬあの空の煙のようにして思い消してくださいませな。この玉鬘の返し歌もなかなか巧みに歌っていますよね。

行幸 (みゆき)

うちきらし朝ぐもりせし行幸にはさやかに空の光やは見し 玉鬘

あかねさす光は空に曇らぬをなどて行幸に目をきらしけむ 光源氏

・歌の背景
光源氏三十六歳。大原野への行幸で、冷泉帝の姿を目にして感銘する玉鬘に、源氏は宮仕えをすすめる。
・講義より

うちきらし朝ぐもりせし行幸にはさやかに空の光やは見し

霧が深く立ち込めて、朝曇りしておりましたあの行幸の場では、どうしてはっきりと空の光が見ることができましょうか。どうしてはっきりと空の光を見ることができたでございましょうか。とても、それはとても無理でございました。私にははっきりとお見申すことができませんでした。

あかねさす光は空に曇らぬをなどて行幸に目をきらしけむ

「あかねさす」は、光の枕詞ですね。「光」は帝のすばらしいお姿。「あかねさす光は空に曇らぬを」、あかねさす光のように、帝のお姿は曇りなく見えたはずですが、一体どうしてあなたはあの行幸の場で「目をきらしけむ」。「きらす」というのは、霧らう。つまり霧で曇らせてしまったのでしょう。玉鬘の歌の「うちきらし」を取って、「などて行幸に目をきらしけむ」、どうしてあのすばらしい行幸のお姿に目を曇らせてしまったのでしょう。目を霞ませてしまったのでしょう。残念なことですね。

藤袴 (ふぢばかま)

同じ野の露にやつるる藤袴あはれはかけよかことばかりも 夕霧

尋ぬるにはるけき野辺の露ならば薄紫やかことならまし 玉鬘

・歌の背景
光源氏三十七歳。源氏の使者として、宮仕えの件で玉鬘を訪ねた夕霧は、玉鬘が実姉でないことを知り、夕霧らしい不器用さで口説き、蘭の花を御簾の中へ差し入れる。(藤袴は蘭の異名)
・講義より

同じ野の露にやつるる藤袴あはれはかけよかことばかりも

夕霧の歌の「同じ野の露にやつるる藤袴」、同じ野の露にしおれている藤袴。藤袴の花の紫を連想させる言い方でしょうね。我々が今あれする藤袴、実際に送ったのはそうじゃなくて、ラン科の、しかし薄紫の花の咲く花だったんでしょうが、それを藤袴というふうにして歌では歌っているわけです。しかも、それは同じ野にしおれている藤袴、こんな同じ野に同じ紫の縁(ゆかり)の色でしおれている藤袴。それに対して、あなたのあはれはどうぞおかけくださいな。「かことばかりも」、「かこと」というのは掛け詞で、「かご」は、帯のとめ金ですね、ベルトのバックルみたいなものです。それが、「かご」あるいは「かこ」と言われる。その「かこ」あるいは「かご」と「かごと」、口実、あるいは恨み言ですね、あるいはほんの申し訳。それを掛け詞で言っているわけです。藤袴を出してきて、それに帯をとめる「かご」、そして口実の言葉「かごと」を重ねてきたわけです。ほんの申し訳程度でもということですね。しかし、同じ野のゆかりの色としてしおれて咲いている藤袴、それじゃないけれども、あはれの心はかけてくださいな。ほんの申し訳程度でも結構だから。

尋ぬるにはるけき野辺の露ならば薄紫やかことならまし

尋ねてみて、とめどもないはるかな野辺の露のようなものであるならば、たとえそこに咲いている薄紫のゆかりの花と言っても、それはほんの言い訳みたいなもの、申し訳みたいなものでございましょう。別にあなた様と私が深いかかわり合いがあるわけではございませんわ、というふうな気持ちですね。

真木柱 (まきばしら)

今はとて宿かれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな 姫君(真木柱)

馴れきとは思ひ出づとも何により立ちとまるべき真木の柱ぞ (北方)

・歌の背景
光源氏三十七歳。玉鬘に夢中になるあまり妻や子供のことを顧みない髭黒の大将に対し、北の方の父上に当たる式部卿の宮は、髭黒の大将の北の方と子どもたちを屋敷へ迎える。髭黒の大将の姫君(真木柱)は、父君が来られることを待ち望み、悲しい気持ちを詠む。
・講義より

今はとて宿かれぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな

簡明な、そのままわかる歌です。こんな年若い女の子が、でも思い余って書きつけた歌ですね。どうというほどのこともないけれども、幼いなりにそのまますっと意味が通っていて、やはり胸打たれるような思いがする歌ですね。「今はとて宿かれぬとも」、これが最後だと思って、この宿を離れていくにつけても、今までなじみを重ねてきた、慣れ親しんできたこの真木の柱。真木は木の中の木、檜とか杉を言う言葉ですが、この真木の柱は「われを忘るな」。私を忘れないでおいておくれ。私の思いもまた、というふうな思いですね。

馴れきとは思ひ出づとも何により立ちとまるべき真木の柱

母君が、「いでや」、それじゃ私もというので、「馴れきとは思ひ出づとも何により立ちどまるべき真木の柱ぞ」、なじみを深めてきたことは思い出すとしても、今さら何によって立ちどまるべき理由のある、この真木の柱だろう。もう一つ何か心が足りないような歌ですね。

藤裏葉 (ふぢのうらば)

春日さす藤の裏葉のうらとけて君し思はば我も頼まむ 内大臣

・歌の背景
光源氏三十九歳。藤の花の宴に内大臣が夕霧を招き、内大臣は夕霧と、またうちとけたいのだと、 心のうらを「藤の裏(うら)葉」に掛けて歌を詠む。
・講義より

御時よく、さうどきて、「藤の裏葉の」とうち誦じたまへる

これはこの巻の名前にもなっている「春日さす藤の裏葉のうらとけて君し思はば我も頼まむ」。後撰集の春の巻の読み人知らずの歌ですが、この場では、なかなか場面を転換させるのに、内大臣が鮮やかな引き方をしていますね。この引歌で、「春日さす藤の裏葉のうらとけて」、春の日差しが届いてくる藤の裏葉というのが、現実にどういう状態を言うのか、なかなか我々にはとりにくいところがあるんですけれども、藤の花というのは、今でもコンクリートや何かで柱を組んだりして棚につくってありますよね。それから、山なんかに自然に咲いている山藤を見ても、背の高い杉の木とか松の木とかに絡みついて花房を垂らして咲いているわけです。かなり高い木のてっぺんまでもずーっと絡み上っていって、花を咲かせているわけです。春の日の差す藤の裏葉の、その裏じゃないけれども、心がとけて、心(うら)淋し、心(うら)悲しなどの心を言う「心(うら)」と藤の裏葉の「裏」とを掛け詞で言っているわけです。春日さす藤の裏葉、それじゃないけれども、心のうらがとけて、心がとけ出でて、「君し思はば我も頼まむ」、あなたが私のことを信頼し思ってくださるならば、私の方でもまたあなたを信頼いたしましょうよ。相手の心を許す意思を示した引歌の形ですね。そういう形で、内大臣が夕霧の心に一歩近づいた意思のあらわし方をしたわけです。

若菜 (わかな)

小松原末の齢に引かれてや野辺の若菜も年を摘むべき 光源氏

・歌の背景
光源氏四十歳。今は髭黒の北方になっている玉鬘が、源氏の四十賀を祝って、若菜を捧げる。
・講義より

小松原末の齢に引かれてや野辺の若菜も年を摘むべき

目の前にいる幼い者たちに掛けて「小松原」と言ったわけですね。もちろん、こういうめでたいときの松に、「末の齢に引かれてや」。「まつ」と「ひく」、松の若苗を引く、松と引くとは縁のある言葉ですけれども、それを「小松原末の齢に引かれてや」、この若々しい小松原の末永い齢に引かれて、その縁で、今日祝われるこの野辺の若菜も、年を積むことでしょうよ。これからもなお年を重ねることでしょうよ。「引く」は、この若菜を引くに響いていくわけですが、上の方の「小松原末の齢に引かれて」という「齢」とも響き合っているわけですね。若々しい幼い人たちの末永い齢の縁に私も引かれて、それに誘われて末永く、この野辺の若菜も、これからもさらに年を重ねていくことでしょうよ。年を積むべき祝福を受けたことだね。

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