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源氏物語とシェイクスピア作品との対話 (6)

源氏物語とシェイクスピア作品との対話 (6)

シンポジウム「いま、古典文学のルネサンス」

simposium[1]

パネリスト
岡野弘彦 國學院大学名誉教授
ピーター・ミルワード 上智大学名誉教授

コーディネーター
松田義幸 実践女子大学教授

  1. はじめに
  2. 講義の補足 伊勢の斎宮―倭姫と倭建
  3. ミルワード先生の発表を受けて
  4. 源氏物語とシェイクスピア作品の世界
  5. 折口信夫の原作が映画化された「死者の書」について
  6. 現代の大学において教養教育が直面している課題

1.はじめに


(再生時間 12分37秒)

・エンゼル・カレッジが提供している生涯学習支援コンテンツとは?
・ダンテ『神曲』と紫式部『源氏物語』
・古典への取り組みを通じた文化交流 ―フィレンツェと京都

2.講義の補足 伊勢の斎宮―倭姫と倭建


(再生時間 11分34秒)

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「第一義の祭り、霊的な神を迎え、神と心を交わし合い、言葉を交わし合って、神の意思を受ける。その力は、ずっとさかのぼっていくと、女性が持っていた。それから、悟り得た、あるいは聞き得た神の言葉を、先ほど言った「いろごのみ」によって選択した理想の男性に伝える。そうすると、その男性は、第二義の政、つまり政治の面にそれを生かして、神の意思を人間社会に実現させようとする努力をする。古代はどうもそういう形であった。それがだんだん第二義の政である政治の実権を握っている男性が表に出ていって、これは中臣から藤原への変化を考えてもよくわかりますけれども、藤原氏のような政治的な勢力が圧倒的に大きな力を持つようになってくる。そういうふうに恐らく変わっていったんだろうと思うんです。」(岡野弘彦)

3.ミルワード先生の発表を受けて


(再生時間 7分7秒)

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「『源氏物語』の中でも、(中略)オフィーリアを思わせるような、つまり名前からして既に浮舟ですね。源氏の実の子ではない、柏木衛門督(えもんのかみ)という若者と源氏の妻の女三宮との間における不義の子である薫君と、薫君の香りのいいことをうらやんでいる源氏の孫に当たるドン・ファン型の匂宮という男性、この2人の男性の間に挟まれて、苦しんで、宇治川に身を投じる。みんな死んだと思っているんですけれども、実はある僧侶の手に助けられて、命は落とさなかったんですけれども、この悲劇的な女性がまた非常に新鮮な感じを与えるわけです。それが『源氏物語』の最後の宇治十帖の終わりのところに出てくる。宇治十帖というのは、紫式部が実際に書いたかどうか、その娘が書いたとか、文体が違うとか、問題になっていますけれども、とにかく『源氏物語』の大きな物語の中に、水の女の、言ってみれば中古的な、中世的な色彩を持った女性がそんなふうな形で出てくる。そのことなんかも『源氏物語』の幅の広さであり、同時に、日本のオフィーリアというふうな感じが深くするところでございます。」(岡野)

4.源氏物語とシェイクスピア作品の世界


(再生時間 25分47秒)

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「シェイクスピアの天才を理解するために話をすると、シェイクスピアは、田舎者として古きよき時代へのあこがれを持っていました。幸いに大学に進学することはできなかった。証拠は一つもないです。でも、シェイクスピアは自学であった。自分で劇のためにすべてを勉強するようになりましたので、それは自然な学び方だと思います。(中略)「ネイチャー 対 アーツ」という論争がそのときにあって、アーツと言ったら美術ではなく学問の意味です。ヒューマニズムのアーツ、ヒューマニティーズ。ですから、古典文学の研究によるアーツとなります。リベラルアーツのアーツの意味です。でも、シェイクスピアは、そのようにアーツを追求したのではなく自然を大事にしていた。自然に基づいて好きなように勉強するようになりました。ですから、シェイクスピアはいつも自然に近いような人物だと思われるようになりました。そういう点では紫式部に似ているところもあると思います。」(ピーター・ミルワード)

5.折口信夫の原作が映画化された「死者の書」について


(再生時間 13分26秒)

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「折口信夫は、生前、「僕の古代学の表現は、戯曲にならざるを得ないよ」とよく言っていたんです。(中略)書かれたのは昭和14年。つまり大陸で戦争がだんだん深刻になっていく。同時に、折口信夫の心の中では、不吉なものを書いてしまったという悔いもあっただろうと思うんです。やがて敗戦の年になって、自分が一番信頼し、自分の家に18年いて、自分の生活と学問の手助けをしてくれた藤井春洋という人が硫黄島で戦死してしまうわけです。機関銃隊長として壮絶な死を遂げただろうと思うんですけれども、そういうことの予言を既に自分が書いてしまったかしらんというふうな後悔もあっただろうと思うんです。単行本になったのは昭和18年です。雑誌に出したのは14年ですけれども。そういう小説です。ですから非常に難解です。何度読んでも、もう一つ奥があるというふうな感じがするわけですけれども、それを人形で表現していられるところが非常に象徴的な奥深さを感じる。つまり生の人間でやるよりは、少しずつ、少しずつ人形の表情を変えて、あるときは大津皇子、しかし、それがふーっと仏の金色の姿にダブっていったり、南家の郎女の心がだんだん深まりを持っていく、あるいは悲しみを強めていく、そういうふうな表情が微妙な変化で表現せられていて、そういうところがなかなか見事にできていると私は思うのであります。 」(岡野)

6.現代の大学において教養教育が直面している課題


(再生時間 19分43秒)

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「ミルワード先生は大変シャレがお上手ですが、伺っていてすぐに感じたのは、先生は声、音に敏感でいらっしゃるから、音のあれではっと連想が働いてシャレが生まれてくる。僕は、それはやはりシェイクスピア研究の一つの成果ではなかろうかなどと思ったりしているんですけれども、それを日本語でなさるから、すごいんですけれども。あのころの男性でもそうですが、殊に女性の言葉の連想力というのは、意味とか何かを考えるよりも、音ですっと入って、調べですっと連想が働いていったわけです。
それから、多義性の歌が非常に多いです。ところが、今、研究者は合理的にいきますから、この歌のこの言葉はこの意味一つなんだというふうに決めつけてしまうわけですけれども、実は古代へさかのぼればさかのぼるほど、歌は時と場によって一つの言い方がいろいろ変化する。多義性の魅力があるから、縁語、掛詞、本歌取りというふうな技巧が生まれてきたわけで、そのことなんかも、殊に源氏研究、あるいは古代の和歌の研究の上では、少しおろそかになっているというか、忘れられている。」(岡野)

milward_small[1]「どういうふうにシェイクスピアを教えるか。シェイクスピアの劇、例えば『ロミオとジュリエット』のテキストを一緒に読むのはもちろんよろしいけれども、私は普通、シェイクスピアの授業をするときに、シェイクスピアの一つの劇に絞って話をするよりも、シェイクスピアの有名なせりふを主題として扱うようにします。つまりシェイクスピアは劇作家というより詩人だと思います。シェイクスピアの特徴は言葉にあります。シェイクスピアの力は言葉にあります。もちろん紫式部さんも言葉の使い方が上手だった。シェイクスピアの言葉を受けて、それについてゆっくりと考えることが非常に大事だと思います。ですから学生たちのエッセイ、自由作文を読むことによって、とても感激するようになります。シェイクスピアの学者ではないけれども、シェイクスピアの言葉、例えば「To be, or not to be,~」とか、そのような有名なせりふを全部読んで、それについて考えたり自分の感想を述べると、学生たちはよく学ぶことができるようになりますし、知恵を学ぶようになります。つまり知恵は先生の方から受けるのではなく、自分の心から出るはずです。」(ピーター・ミルワード)

コンテンツ名 第3回 Genjiフォーラム・スペシャル 源氏物語とシェイクスピア作品との対話
収録日 2006年3月14日
講師 岡野弘彦、ピーター・ミルワード、コーディネーター:松田義幸

会場:東京・上智大学中央図書館
主催:上智大学ルネッサンスセンター、財団法人エンゼル財団
2006年3月「第3回 Genjiフォーラム・スペシャル 源氏物語とシェイクスピア作品との対話」が、東京・上智大学で開催されました。このコンテンツでは、当日の模様をお伝えしています。

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プロフィール

講師:ピーター・ミルワード

(上智大学名誉教授)

講師:岡野弘彦

(歌人・國學院大學名誉教授)

コーディネーター:松田義幸

(実践女子大学教授)

肩書などはコンテンツ収録時のものです

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