世界遺産モデル・フィレンツェに学ぶ 第1部 歴史からの視点
第1部 歴史からの視点
講演 樺山紘一 印刷博物館館長
ダンテからルネサンスへ 歴史の視点から
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- ダンテの生きた時代:中世の暮れ方
- 図版資料/ミケリーノ 「『神曲』の詩人ダンテ」
- イタリアという拠りどころ
- 十五世紀のイタリア
- 『俗語論』と『帝政論』
- 時間の水平線:中世からの古代眺望
- 「最後のローマ人」という称号
ダンテからルネサンスへ 歴史の視点から (つづき)
- 空間の地平線:地中海という母郷
- アシン・パラシオスの仮説
- 図版資料/アヴィケンナ 『医学典範』より
- ダンテとともに拡大した地平線
- 図版資料/カスターニョ 「ジョヴァンニ・ボッカチオ」
- 図版資料/カスターニョ 「フランチェスコ・ペトラルカ」
- フィレンツェはルネサンスの精神の故郷
- 図版資料/「鎖の地図」 フィレンツェ市図
- 図版資料/『ホメロス作品集』 ギリシャ語刊本
- 図版資料/ボッティチェリ? 「婦人の肖像」
- 図版資料/フィチーノ 『植物図譜』 「マンドラゴーラ」
- 都市国家の競合を生き抜くフィレンツェ
- 図版資料/ブロンズィーノ+工房 「甲冑姿のコジモ一世」
トークイン「歴史からの視点」
樺山紘一 印刷博物館館長
田中英道 東北大学名誉教授
松田義幸 尚美学園大学学長
・ダンテとイスラム文化
「我々は日本人ですから、日本人の研究者として東洋というものを見ていると、イスラム文化がヨーロッパにどの程度入っていったかということの研究は非常に興味があるわけです。」(田中)
「私たちにとっては、古代の文化は西のヨーロッパでは途絶えたと言うけれども、イスラム世界及びビザンチンの東ローマ世界も含めて、東の世界ではほとんど断絶なしに受け取られてきて、それが次々と新しい要素を加えて発展してきている。そうしたものが西ヨーロッパへ翻訳を通して入っていくのは、ちょうどダンテの直前ぐらいからです。早くとると13世紀の初めと言ってもいいかもしれないけれども、一番大きいのは13世紀だと思いますが、そのようにしてイスラム世界から西ヨーロッパへの様々な形での流入がダンテを含む当時の人々に対する大きなインパクトになったと思います。マルコポーロがちょうど中国へやってきました。あのベェネツィア人は、ダンテとほとんど同じ年です」(樺山)
・ダンテとウェルギリウス
・写本を大切にする西洋文化/本はそれ自身が多様なメディア
・「最後のローマ人」というダンテの自負
「私は、ルネサンスという言葉、あるいは古代ローマと近代ヨーロッパの関係のことも考えていまして、キリスト教的な近代ヨーロッパと多神教的な古代ローマというものにやはり大きな違いがあるのではないか。それはまさに天国に行けないウェルギリウスの話なんです。」(田中)
なぜウェルギリウスであってホメロスでないのか
「ウェルギリウスの作品はホメロスの改訂版というか、ローマ版です。ウェルギリウスの作品は、しばしばホメロスに比べて風格がないとか、構成として極めて弱いとか、こういうふうに言われ続けてきました。だからダンテは何でホメロスではなくてウェルギリウスをあえて選び取ったのかということはよく議論されるけれども、実は1311年の段階で、ホメロスのテキストはもちろん印刷されていないだけではなくて、写本としても流通が極めて少なかった。しかも、仮にあったとしても読めなかった。当時、ギリシア語が読めるヨーロッパ人は極めてわずかで、ほんの数えるぐらいです。だから、あったとしても読めないとすれば、ホメロスとウェルギリウスを比べたというよりは、ダンテにとって、あるいはダンテ時代の人にとっては、ホメロスは違う世界の人であって、自分たちにとってはそれをローマ人の祖先として考える方がはるかに説得力があったということだと思います」(樺山)
・ダンテを必要としたフィレンツェ/アイデンティティとしてのダンテの文学
コンテンツ名 | ダンテフォーラム2009 「芸術都市の創造(2) 世界遺産モデル・フィレンツェに学ぶ」 |
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収録日 | 2009年11月15日 |
講師 | 樺山紘一、田中英道、松田義幸 |
簡易プロフィール | 講師:樺山紘一(印刷博物館館長) 講師:田中英道(東北大学名誉教授) 講師:松田義幸(尚美学園大学学長) 肩書などはコンテンツ収録時のものです |
会場:イタリア文化会館 |
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