第57回 「葵」より その5
中将も源氏の悲しむ様子を見ている。朝顔の宮からも御文が来るにつけ、理想的な人柄で若紫もかくあれと源氏は思う。葵の上の周りの女房たちとも源氏は悲しみをわかちあい、左大臣家から院へ参内した。
講師:岡野弘彦
御法事など過ぎぬれど、正日までは、なほ籠もりおはす。
御法事など過ぎぬれど、正日までは、なほ籠もりおはす。ならはぬ御つれづれを、心苦しがりたまひて、三位中将は常に参りたまひつつ、世の中の御物語など、まめやかなるも、また例の乱りがはしきことをも聞こえ出でつつ、慰めきこえたまふに、かの内侍ぞ、うち笑ひたまふくさはひにはなるめる。大将の君は、
「あな、いとほしや。祖母殿の上、ないたう軽めたまひそ」
といさめたまふものから、常にをかしと思したり。
かの十六夜の、さやかならざりし秋のことなど、さらぬも、さまざまの好色事どもを、かたみに隈なく言ひあらはしたまふ、果て果ては、あはれなる世を言ひ言ひて、うち泣きなどもしたまひけり。
時雨うちして、ものあはれなる暮つ方、
時雨うちして、ものあはれなる暮つ方、中将の君、鈍色の直衣、指貫、うすらかに衣更へして、いと雄々しうあざやかに、心恥づかしきさまして参りたまへり。
君は、西のつまの高欄におしかかりて、霜枯れの前栽見たまふほどなりけり。風荒らかに吹き、時雨さとしたるほど、涙もあらそふ心地して、
「雨となり雲とやなりにけむ、今は知らず」
と、うちひとりごちて、頬杖つきたまへる御さま、「女にては、見捨てて亡くならむ魂かならずとまりなむかし」と、色めかしき心地に、うちまもられつつ、近うついゐたまへれば、しどけなくうち乱れたまへるさまながら、紐ばかりをさし直したまふ。
これは、今すこしこまやかなる夏の御直衣に、紅のつややかなるひき重ねて、やつれたまへるしも、見ても飽かぬ心地ぞする。
中将も、いとあはれなるまみに眺めたまへり。
「雨となりしぐるる空の浮雲を
いづれの方とわきて眺めむ
行方なしや」
と、独り言のやうなるを、
「見し人の雨となりにし雲居さへ
いとど時雨にかき暮らすころ」
とのたまふ御けしきも、浅からぬほどしるく見ゆれば、
「あやしう、年ごろはいとしもあらぬ御心ざしを、院など、居立ちてのたまはせ、大臣の御もてなしも心苦しう、大宮の御方ざまに、もて離るまじきなど、かたがたにさしあひたれば、えしもふり捨てたまはで、もの憂げなる御けしきながら、ありへたまふなめりかしと、いとほしう見ゆる折々ありつるを、まことに、やむごとなく重きかたは、ことに思ひきこえたまひけるなめり」
と見知るに、いよいよ口惜しうおぼゆ。よろづにつけて光失せぬる心地して、屈じいたかりけり。
枯れたる下草のなかに、龍胆、撫子などの、咲き出でたるを折らせたまひて、
枯れたる下草のなかに、龍胆、撫子などの、咲き出でたるを折らせたまひて、中将の立ちたまひぬる後に、若君の御乳母の宰相の君して、
「草枯れのまがきに残る撫子を
別れし秋のかたみとぞ見る
にほひ劣りてや御覧ぜらるらむ」
と聞こえたまへり。げに何心なき御笑み顔ぞ、いみじううつくしき。宮は、吹く風につけてだに、木の葉よりけにもろき御涙は、まして、とりあへたまはず。
「今も見てなかなか袖を朽たすかな
垣ほ荒れにし大和撫子」
なほ、いみじうつれづれなれば、朝顔の宮に、
なほ、いみじうつれづれなれば、朝顔の宮に、「今日のあはれは、さりとも見知りたまふらむ」と推し量らるる御心ばへなれば、暗きほどなれど、聞こえたまふ。絶え間遠けれど、さのものとなりにたる御文なれば、咎なくて御覧ぜさす。空の色したる唐の紙に、
「わきてこの暮こそ袖は露けけれ
もの思ふ秋はあまた経ぬれど
いつも時雨は」
とあり。御手などの心とどめて書きたまへる、常よりも見どころありて、「過ぐしがたきほどなり」と人も聞こえ、みづからも思されければ、
「大内山を、思ひやりきこえながら、えやは」とて、
「秋霧に立ちおくれぬと聞きしより
しぐるる空もいかがとぞ思ふ」
とのみ、ほのかなる墨つきにて、思ひなし心にくし。
何ごとにつけても、見まさりはかたき世なめるを、つらき人しもこそと、あはれにおぼえたまふ人の御心ざまなる。
「つれなながら、さるべき折々のあはれを過ぐしたまはぬ、これこそ、かたみに情けも見果つべきわざなれ。なほ、ゆゑづきよしづきて、人目に見ゆばかりなるは、あまりの難も出で来けり。対の姫君を、さは生ほし立てじ」と思す。「つれづれにて恋しと思ふらむかし」と、忘るる折なけれど、ただ女親なき子を、置きたらむ心地して、見ぬほど、うしろめたく、「いかが思ふらむ」とおぼえぬぞ、心やすきわざなりける。
暮れ果てぬれば、大殿油近く参らせたまひて、
暮れ果てぬれば、大殿油近く参らせたまひて、さるべき限りの人びと、御前にて物語などせさせたまふ。
中納言の君といふは、年ごろ忍び思ししかど、この御思ひのほどは、なかなかさやうなる筋にもかけたまはず。「あはれなる御心かな」と見たてまつる。おほかたにはなつかしううち語らひたまひて、
「かう、この日ごろ、ありしよりけに、誰も誰も紛るるかたなく、見なれ見なれて、えしも常にかからずは、恋しからじや。いみじきことをばさるものにて、ただうち思ひめぐらすこそ、耐へがたきこと多かりけれ」
とのたまへば、いとどみな泣きて、
「いふかひなき御ことは、ただかきくらす心地しはべるは、さるものにて、名残なきさまにあくがれ果てさせたまはむほど、思ひたまふるこそ」
と、聞こえもやらず。あはれと見わたしたまひて、
「名残なくは、いかがは。心浅くも取りなしたまふかな。心長き人だにあらば、見果てたまひなむものを。命こそはかなけれ」
とて、燈をうち眺めたまへるまみの、うち濡れたまへるほどぞ、めでたき。
とりわきてらうたくしたまひし小さき童の、親どももなく、
とりわきてらうたくしたまひし小さき童の、親どももなく、いと心細げに思へる、ことわりに見たまひて、
「あてきは、今は我をこそは思ふべき人なめれ」
とのたまへば、いみじう泣く。ほどなき衵、人よりは黒う染めて、黒き汗衫、萱草の袴など着たるも、をかしき姿なり。
「昔を忘れざらむ人は、つれづれを忍びても、幼なき人を見捨てず、ものしたまへ。見し世の名残なく、人びとさへ離れなば、たつきなさもまさりぬべくなむ」
など、みな心長かるべきことどもをのたまへど、「いでや、いとど待遠にぞなりたまはむ」と思ふに、いとど心細し。
大殿は、人びとに、際々ほど置きつつ、はかなきもてあそびものども、また、まことにかの御形見なるべきものなど、わざとならぬさまに取りなしつつ、皆配らせたまひけり。
君は、かくてのみも、いかでかはつくづくと過ぐしたまはむとて、
君は、かくてのみも、いかでかはつくづくと過ぐしたまはむとて、院へ参りたまふ。御車さし出でて、御前など参り集るほど、折知り顔なる時雨うちそそきて、木の葉さそふ風、あわたたしう吹き払ひたるに、御前にさぶらふ人々、ものいと心細くて、すこし隙ありつる袖ども湿ひわたりぬ。
夜さりは、やがて二条院に泊りたまふべしとて、侍ひの人びとも、かしこにて待ちきこえむとなるべし、おのおの立ち出づるに、今日にしもとぢむまじきことなれど、またなくもの悲し。
大臣も宮も、今日のけしきに、また悲しさ改めて思さる。宮の御前に御消息聞こえたまへり。
「院におぼつかながりのたまはするにより、今日なむ参りはべる。あからさまに立ち出ではべるにつけても、今日までながらへはべりにけるよと、乱り心地のみ動きてなむ、聞こえさせむもなかなかにはべるべければ、そなたにも参りはべらぬ」
とあれば、いとどしく宮は、目も見えたまはず、沈み入りて、御返りも聞こえたまはず。
大臣ぞ、やがて渡りたまへる。いと堪へがたげに思して、御袖も引き放ちたまはず。見たてまつる人々もいと悲し。
大将の君は、世を思しつづくること、いとさまざまにて、
大将の君は、世を思しつづくること、いとさまざまにて、泣きたまふさま、あはれに心深きものから、いとさまよくなまめきたまへり。大臣、久しうためらひたまひて、
「齢のつもりには、さしもあるまじきことにつけてだに、涙もろなるわざにはべるを、まして、干る世なう思ひたまへ惑はれはべる心を、えのどめはべらねば、人目も、いと乱りがはしう、心弱きさまにはべるべければ、院などにも参りはべらぬなり。ことのついでには、さやうにおもむけ奏せさせたまへ。いくばくもはべるまじき老いの末に、うち捨てられたるが、つらうもはべるかな」
と、せめて思ひ静めてのたまふけしき、いとわりなし。君も、たびたび鼻うちかみて、
「後れ先立つほどの定めなさは、世のさがと見たまへ知りながら、さしあたりておぼえはべる心惑ひは、類ひあるまじきわざとなむ。院にも、ありさま奏しはべらむに、推し量らせたまひてむ」と聞こえたまふ。
「さらば、時雨も隙なくはべるめるを、暮れぬほどに」と、そそのかしきこえたまふ。
うち見まはしたまふに、御几帳の後、障子のあなたなどのあき通りたるなどに、
うち見まはしたまふに、御几帳の後、障子のあなたなどのあき通りたるなどに、女房三十人ばかりおしこりて、濃き、薄き鈍色どもを着つつ、皆いみじう心細げにて、うちしほれたれつつゐ集りたるを、いとあはれ、と見たまふ。
「思し捨つまじき人もとまりたまへれば、さりとも、もののついでには立ち寄らせたまはじやなど、慰めはべるを、ひとへに思ひやりなき女房などは、今日を限りに、思し捨てつる故里と思ひ屈じて、長く別れぬる悲しびよりも、ただ時々馴れ仕うまつる年月の名残なかるべきを、嘆きはべるめるなむ、ことわりなる。うちとけおはしますことははべらざりつれど、さりともつひにはと、あいな頼めしはべりつるを。げにこそ、心細き夕べにはべれ」
とても、泣きたまひぬ。
「いと浅はかなる人びとの嘆きにもはべるなるかな。まことに、いかなりともと、のどかに思ひたまへつるほどは、おのづから御目離るる折もはべりつらむを、なかなか今は、何を頼みにてかはおこたりはべらむ。今御覧じてむ」
とて出でたまふを、大臣見送りきこえたまひて、入りたまへるに、御しつらひよりはじめ、ありしに変はることもなけれど、空蝉のむなしき心地ぞしたまふ。
御帳の前に、御硯などうち散らして、手習ひ捨てたまへるを取りて、
御帳の前に、御硯などうち散らして、手習ひ捨てたまへるを取りて、目をおししぼりつつ見たまふを、若き人々は、悲しきなかにも、ほほ笑むあるべし。あはれなる古言ども、唐のも大和のも書きけがしつつ、草にも真名にも、さまざまめづらしきさまに書き混ぜたまへり。
「かしこの御手や」
と、空を仰ぎて眺めたまふ。よそ人に見たてまつりなさむが、惜しきなるべし。「旧き枕故き衾、誰と共にか」とある所に、
「なき魂ぞいとど悲しき寝し床の
あくがれがたき心ならひに」
また、「霜の花白し」とある所に、
「君なくて塵つもりぬる常夏の
露うち払ひいく夜寝ぬらむ」
一日の花なるべし、枯れて混じれり。
宮に御覧ぜさせたまひて、
宮に御覧ぜさせたまひて、
「いふかひなきことをばさるものにて、かかる悲しき類ひ、世になくやはと、思ひなしつつ、契り長からで、かく心を惑はすべくてこそはありけめと、かへりてはつらく、前の世を思ひやりつつなむ、覚ましはべるを、ただ、日ごろに添へて、恋しさの堪へがたきと、この大将の君の、今はとよそになりたまはむなむ、飽かずいみじく思ひたまへらるる。一日、二日も見えたまはず、かれがれにおはせしをだに、飽かず胸いたく思ひはべりしを、朝夕の光失ひては、いかでかながらふべからむ」
と、御声もえ忍びあへたまはず泣いたまふに、御前なるおとなおとなしき人など、いと悲しくて、さとうち泣きたる、そぞろ寒き夕べのけしきなり。
若き人びとは、所々に群れゐつつ、おのがどち、あはれなることどもうち語らひて、
「殿の思しのたまはするやうに、若君を見たてまつりてこそは、慰むべかめれと思ふも、いとはかなきほどの御形見にこそ」
とて、おのおの、「あからさまにまかでて、参らむ」と言ふもあれば、かたみに別れ惜しむほど、おのがじしあはれなることども多かり。
院へ参りたまへれば、
院へ参りたまへれば、
「いといたう面痩せにけり。精進にて日を経るけにや」
と、心苦しげに思し召して、御前にて物など参らせたまひて、とやかくやと思し扱ひきこえさせたまへるさま、あはれにかたじけなし。
中宮の御方に参りたまへれば、人びと、めづらしがり見たてまつる。命婦の君して、
「思ひ尽きせぬことどもを、ほど経るにつけてもいかに」
と、御消息聞こえたまへり。
「常なき世は、おほかたにも思うたまへ知りにしを、目に近く見はべりつるに、いとはしきこと多く思うたまへ乱れしも、たびたびの御消息に慰めはべりてなむ、今日までも」
とて、さらぬ折だにある御けしき取り添へて、いと心苦しげなり。無紋の表の御衣に、鈍色の御下襲、纓巻きたまへるやつれ姿、はなやかなる御装ひよりも、なまめかしさまさりたまへり。
春宮にも久しう参らぬおぼつかなさなど、聞こえたまひて、夜更けてぞ、まかでたまふ。
コンテンツ名 | 源氏物語全講会 第57回 「葵」より その5 |
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収録日 | 2005年1月22日 |
講師 | 岡野弘彦(國學院大學名誉教授) |
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