源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第96回 「乙女」より その4

前半は、『死者の書』とその構成の変化を解説する。(内)大臣は(弘徽殿)女御を里下がりさせ、姫君(雲居雁)を(大)宮の許から引き取ることにする。大宮の計らいで、冠者の君(夕霧)と姫君(雲居雁)は対面する。乳母の嘆きが男君(夕霧)は憎らしかった。

『死者の書』の動機 ――「鎮らざる魂」への思い

・折口信夫原作/池田弥三郎脚本「憑(お)りくる魂(たま)」について
・折口信夫の『死者の書』を浄瑠璃にアレンジした「憑りくる魂」
・大津皇子(おおつのみこ)の鎮まらざる魂をめぐる『死者の書』の物語
・魂を鎮める女性の力を象徴的に描こうとした折口信夫
・繰り返して読まなければ分からない『死者の書』/出版当時の批評
・丸谷才一さんの『死者の書』批評と小説『輝く日の宮』について

未完成霊・折口春洋 ―― その魂の鎮めの歌

・『死者の書』の構成の変遷/最初の雑誌発表時との違い
・後の単行本化の際に、冒頭の章が大きく入れ替わる
・なぜ折口信夫は『死者の書』の構成を変えたか
・大東亜戦争と折口信夫
・硫黄島で戦死した折口春洋からの手紙
・戦死した未完成霊をどう鎮めるか/大事な部分が欠落した戦後の日本社会

「硫気ふく島」   釋迢空
たたかひのただ中にして、
我がために書きし 消息
あはれ ただ一ひらのふみ―
かずならぬ身と な思ほし―
 如何ならむ時をも堪へて
  生きつつもいませ とぞ祈る―

きさらぎのはつかの空の 月ふかし。まだ生きて子はたたかふらむか
洋(わた)なかの島にたつ子を ま愛(ガナ)しみ、我は撫でたり。大きかしらを
たたかひの島に向ふと ひそかなる思ひをもりて、親子ねむりぬ
物音のあまりしづかになりぬるに、夜ふけけるかと、時を惜しみぬ
かたくなに 子を愛(メ)で痴(シ)れて、みどり子の如くするなり。歩兵士官を
大君の伴の荒夫のすねこぶら つかみなでつつ 涕ながれぬ
横浜の 方町さむき並み木はら。木がらしの道に 吹きまぎれ行く
こがらしに 並み木のみどりとぶ夕。行きつつ 道に 子を見うしなふ
あひ住みて 教へ難きをくるしむに 若きゆゑとし こらへかねつも

南島 死者の書   岡野弘彦
    ―きさらぎのはつかの空の 月ふかし。まだ生きて
     子はたたかふらむか― 釋迢空

南(みむなみ)の涯の小島に 仇の艦(ふね)せまるを待ちて まだ生きてをり
硫気噴く島の巌(いはほ)をうがちたる 柩のごとき室(むろ)に わが棲む
ひたすらに命生きよと さとしつつ 常たぢろがず 栗林忠道

季節なき洋(わた)の小島にすぐる日の あなたづきなし。年暮れむとす
爆死せし友の屍をうづみ終へ 息づくわれも 肌焦げてをり
翳り濃き 阿壇(あだん)のやぶにひそみ啼く こゑ凶まがし かつを鳥の群
仇の艦(ふね) 海をうづめて迫る日も 雛そだてをり 島の水鳥
永劫の夜闇に臭ふ壕の底。チブスを病みて 兵らうごめく
また一人 命絶えたる骸より 蛆ほろほろと 離れゆくなり
敵艦の齋射はてなくつづく夜を ひそめる島の地軸 とどろく
兵二万 肉(しし)むら焦げて死に果てし なげきの島に 機はくだりゆく
黒々と焼けて粒だつ島の砂 踏みしめて われの足裏(あうら) 疼けり
壕の壁に指もて彫(ゑ)りし言の葉の あな幼(いと)けなし。母をよぶなり
生きかはり 死にかはりつつ伝へおかむ。命の際の 母をよぶ声
永らへて八十(やそ)の命を生きし身は、何つぐなはむ。若き君らに

目も鼻も 焼けとろろぎし愛(かな)し子を 抱きしめて われも ともに滅びむ
力には力もて対(むか)ふむなしさを つぶさに知りて 死にゆきしなり
新憲法 生(あ)れいでし日のよろこびを はかなく 人は忘れなむとす
百万の若き命を死なせたる轍(わだち)を 君ら 踏むことなかれ
この星の か弱き命とげゆかむ。神よりも深き 死者の願ひぞ
『歌壇』 平成19年7月号

大臣は、そのままに参りたまはず、宮をいとつらしと思ひきこえたまふ。

 大臣は、そのままに参りたまはず、宮をいとつらしと思ひきこえたまふ。北の方には、かかることなむと、けしきも見せたてまつりたまはず、ただおほかた、いとむつかしき御けしきにて、
  「中宮のよそほひことにて参りたまへるに、女御の世の中思ひしめりてものしたまふを、心苦しう胸いたきに、まかでさせたてまつりて、心やすくうち休ませたてまつらむ。さすがに、主上につとさぶらはせたまひて、夜昼おはしますめれば、ある人びとも心ゆるびせず、苦しうのみわぶめるに」
  とのたまひて、にはかにまかでさせたてまつりたまふ。御暇も許されがたきを、うちむつかりたまて、主上はしぶしぶに思し召したるを、しひて御迎へしたまふ。
  「つれづれに思されむを、姫君渡して、もろともに遊びなどしたまへ。宮に預けたてまつりたる、うしろやすけれど、いとさくじりおよすけたる人立ちまじりて、おのづから気近きも、あいなきほどになりにたればなむ」
  と聞こえたまひて、にはかに渡しきこえたまふ。

宮、いとあへなしと思して、

宮、いとあへなしと思して、
  「ひとりものせられし女亡くなりたまひて後、いとさうざうしく心細かりしに、うれしうこの君を得て、生ける限りのかしづきものと思ひて、明け暮れにつけて、老いのむつかしさも慰めむとこそ思ひつれ、思ひのほかに隔てありて思しなすも、つらく」
  など聞こえたまへば、うちかしこまりて、
  「心に飽かず思うたまへらるることは、しかなむ思うたまへらるるとばかり聞こえさせしになむ。深く隔て思ひたまふることは、いかでかはべらむ。
  内裏にさぶらふが、世の中恨めしげにて、このころまかでてはべるに、いとつれづれに思ひて屈しはべれば、心苦しう見たまふるを、もろともに遊びわざをもして慰めよと思うたまへてなむ、あからさまにものしはべる」とて、「育み、人となさせたまへるを、おろかにはよも思ひきこえさせじ」
  と申したまへば、かう思し立ちにたれば、止めきこえさせたまふとも、思し返すべき御心ならぬに、いと飽かず口惜しう思されて、
  「人の心こそ憂きものはあれ。とかく幼き心どもにも、われに隔てて疎ましかりけることよ。また、さもこそあらめ、大臣の、ものの心を深う知りたまひながら、われを怨じて、かく率て渡したまふこと。かしこにて、これよりうしろやすきこともあらじ」
  と、うち泣きつつのたまふ。

折しも冠者の君参りたまへり。

 折しも冠者の君参りたまへり。「もしいささかの隙もや」と、このころはしげうほのめきたまふなりけり。内大臣の御車のあれば、心の鬼にはしたなくて、やをら隠れて、わが御方に入りゐたまへり。
  内大殿の君達、左少将、少納言、兵衛佐、侍従、大夫などいふも、皆ここには参り集ひたれど、御簾の内は許したまはず。
  左兵衛督、権中納言なども、異御腹なれど、故殿の御もてなしのままに、今も参り仕うまつりたまふことねむごろなれば、その御子どももさまざま参りたまへど、この君に似るにほひなく見ゆ。
  大宮の御心ざしも、なずらひなく思したるを、ただこの姫君をぞ、気近うらうたきものと思しかしづきて、御かたはらさけず、うつくしきものに思したりつるを、かくて渡りたまひなむが、いとさうざうしきことを思す。

殿は「今のほどに、内裏に参りはべりて、夕つ方迎へに参りはべらむ」とて、

 殿は、
  「今のほどに、内裏に参りはべりて、夕つ方迎へに参りはべらむ」
  とて、出でたまひぬ。
  「いふかひなきことを、なだらかに言ひなして、さてもやあらまし」と思せど、なほ、いと心やましければ、「人の御ほどのすこしものものしくなりなむに、かたはならず見なして、そのほど、心ざしの深さ浅さのおもむきをも見定めて、許すとも、ことさらなるやうにもてなしてこそあらめ。制し諌むとも、一所にては、幼き心のままに、見苦しうこそあらめ。宮も、よもあながちに制したまふことあらじ」
  と思せば、女御の御つれづれにことつけて、ここにもかしこにもおいらかに言ひなして、渡したまふなりけり。

宮の御文にて、「大臣こそ、恨みもしたまはめ、

  宮の御文にて、
  「大臣こそ、恨みもしたまはめ、君は、さりとも心ざしのほども知りたまふらむ。渡りて見えたまへ」
  と聞こえたまへれば、いとをかしげにひきつくろひて渡りたまへり。十四になむおはしける。かたなりに見えたまへど、いと子めかしう、しめやかに、うつくしきさましたまへり。
  「かたはらさけたてまつらず、明け暮れのもてあそびものに思ひきこえつるを、いとさうざうしくもあるべきかな。残りすくなき齢のほどにて、御ありさまを見果つまじきことと、命をこそ思ひつれ、今さらに見捨てて移ろひたまふや、いづちならむと思へば、いとこそあはれなれ」
  とて泣きたまふ。姫君は、恥づかしきことを思せば、顔ももたげたまはで、ただ泣きにのみ泣きたまふ。男君の御乳母、宰相の君出で来て、
  「同じ君とこそ頼みきこえさせつれ、口惜しくかく渡らせたまふこと。殿はことざまに思しなることおはしますとも、さやうに思しなびかせたまふな」
  など、ささめき聞こゆれば、いよいよ恥づかしと思して、物ものたまはず。
  「いで、むつかしきことな聞こえられそ。人の宿世宿世、いと定めがたく」
  とのたまふ。
  「いでや、ものげなしとあなづりきこえさせたまふにはべるめりかし。さりとも、げに、わが君人に劣りきこえさせたまふと、聞こしめし合はせよ」
  と、なま心やましきままに言ふ。

冠者の君、物のうしろに入りゐて見たまふに、

 冠者の君、物のうしろに入りゐて見たまふに、人の咎めむも、よろしき時こそ苦しかりけれ、いと心細くて、涙おし拭ひつつおはするけしきを、御乳母、いと心苦しう見て、宮にとかく聞こえたばかりて、夕まぐれの人のまよひに、対面せさせたまへり。

かたみにもの恥づかしく胸つぶれて、

 かたみにもの恥づかしく胸つぶれて、物も言はで泣きたまふ。
  「大臣の御心のいとつらければ、さはれ、思ひやみなむと思へど、恋しうおはせむこそわりなかるべけれ。などて、すこし隙ありぬべかりつる日ごろ、よそに隔てつらむ」
  とのたまふさまも、いと若うあはれげなれば、
  「まろも、さこそはあらめ」
  とのたまふ。
  「恋しとは思しなむや」
  とのたまへば、すこしうなづきたまふさまも、幼げなり。

御殿油参り、殿まかでたまふけはひ、

 御殿油参り、殿まかでたまふけはひ、こちたく追ひののしる御前駆の声に、人びと、
  「そそや」
  など懼ぢ騒げば、いと恐ろしと思してわななきたまふ。さも騒がればと、ひたぶる心に、許しきこえたまはず。御乳母参りてもとめたてまつるに、けしきを見て、
  「あな、心づきなや。げに、宮知らせたまはぬことにはあらざりけり」
  と思ふに、いとつらく、
  「いでや、憂かりける世かな。殿の思しのたまふことは、さらにも聞こえず、大納言殿にもいかに聞かせたまはむ。めでたくとも、もののはじめの六位宿世よ」
  と、つぶやくもほの聞こゆ。ただこの屏風のうしろに尋ね来て、嘆くなりけり。
  男君、「我をば位なしとて、はしたなむるなりけり」と思すに、世の中恨めしければ、あはれもすこしさむる心地して、めざまし。
  「かれ聞きたまへ。
   くれなゐの涙に深き袖の色を
   浅緑にや言ひしをるべき
  恥づかし」
  とのたまへば、
  「いろいろに身の憂きほどの知らるるは
   いかに染めける中の衣ぞ」
  と、物のたまひ果てぬに、殿入りたまへば、わりなくて渡りたまひぬ。

男君は、立ちとまりたる心地も、いと人悪く、

 男君は、立ちとまりたる心地も、いと人悪く、胸ふたがりて、わが御方に臥したまひぬ。
  御車三つばかりにて、忍びやかに急ぎ出でたまふけはひを聞くも、静心なければ、宮の御前より、「参りたまへ」とあれど、寝たるやうにて動きもしたまはず。
  涙のみ止まらねば、嘆きあかして、霜のいと白きに急ぎ出でたまふ。うちはれたるまみも、人に見えむが恥づかしきに、宮はた、召しまつはすべかめれば、心やすき所にとて、急ぎ出でたまふなりけり。
  道のほど、人やりならず、心細く思ひ続くるに、空のけしきもいたう雲りて、まだ暗かりけり。
  「霜氷うたてむすべる明けぐれの
   空かきくらし降る涙かな」

コンテンツ名 源氏物語全講会 第96回 「乙女」より その4
収録日 2007年6月30日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

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