『神学大全』と『神曲』の対話 ダンテにおけるトマスの輝き―神曲(天国篇)の現代的解釈(今道友信)

『神学大全』と『神曲』の対話 ダンテにおけるトマスの輝き―神曲(天国篇)の現代的解釈(今道友信)

講演「ダンテにおけるトマスの輝き―神曲(天国篇)の現代的解釈―」

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今道友信 英知大学教授・東京大学名誉教授

※以下の記述内容は、当日会場において配布された、今道友信のレジュメの内容を転載したものです。
また、レジュメの内容はPDF形式ファイルとしてもご覧いただけます。

今道友信 会場配布レジュメ (PDF形式ファイル・1.89MB)

講演「ダンテにおけるトマスの輝き―神曲(天国篇)の現代的解釈―」(1)


(再生時間 15分47秒)

1. 題について

具体的にはダンテの文学的主著『神曲』とトマス・アクィナスの神学的主著『神学大全』の比較研究の一端ともなろうし、キリスト教的文学とキリスト教的神学の相互関係の解明の一助ともなろうとする研究である。それはまた信仰の気圏において神学と詩とを結ぶ哲学の新しい課題への試みでもあろう。

2. 輝きという語について

天国はいかなる処かと想うとき、それは暗く閉ざされた処ではなく、輝き渡る自由なひろがりであると思うことができる。それは先ず輝きの場であり、それは光そのもの(神)ではなく神の輝きが照り渡るところである。

Danteは神を光源としてluceと呼び、例えば Par.ⅩⅩⅩⅢ.124 O luce etterna(おお永遠の光源よ)と父なる神 創造主のことを呼び、come lume reflesso(友照の輝き、友照の光線)とPar.ⅩⅩⅩⅢ.128で子なる神キリスト子のことを述べているように、光源としての光 lux とその明りとしての光線としての光 lume、輝照としてのgloria (una favilla sol della tua gloria 汝の栄光の輝照のただ一筋をだに.Par.XXXⅢ 71)とを明瞭に分けている。

私がここでダンテにおけるトマスの輝きとは、それゆえ、基本的にトマス・アクィナス(注)の光源から、その神学から、ダンテの栄光の光線としての輝きが放射されていることを明らかにしようという意図をもっていることは明らかである。しかし、そのことはトマスを原因とし、ダンテをそこから派生する結果のひとつとして見ることではない。ダンテの輝きは極めて独自的に現代を照らしている。

O luce etterna che sola in te sidi, おお永遠(とわ)の光、自己存在で、
sola t’intendi, e da te intelletta  自己認識をし、自(みずか)らを知れ
e intendente te ami e arridi!   自(みずか)らの愛にほほえみたまう
天国篇33歌 124-126

ダンテがこう歌っているように、神は自らの基礎を自らにもち(汝のうちにのみ坐しており)、汝自らを知り、それゆえ自ら知られ、かくて充ち足りている汝自らを愛しほほえむ完全存在であるが、その次の歌に汝の照(てり)り反(かえ)しかとも思われる汝の生めるあの環(quella circulazion)つまり子なる神キリストの輝きがなければ、その完全な絶対存在者の教えを人類に伝える者はいないことになる。キリストは神の教えをキリストの説教と行為と愛(口伝、行伝、心伝)で人びとに教えた。教会はそれを聖書にまとめ聖伝とともに人類に残した。トマスがしたことはそれらの教えの理性的証明や知的解釈である。『神学大全(summa Theologiae)』はその成果である。かれはギリシアの知性アリストテレースを師とした。

ダンテは何をしたのか。ダンテはローマのヴェルギリウスを師とした。敗軍の将、挫折の身のAeneasをしてRomaを建てしめたVergilius(Virgilio)を師としたことは理性的証明や知的解釈の体系であるトマスの思想を、アリストテレースから解放し、想像(imaginatio)と詩(叙情詩 poesia epica)でVergiliusがギリシア諸作品に対してローマ人のidentityのためにラテン語で書いたように、キリスト教会の知的人士のラテン語の著作に対し、当時俗語と言われていたイタリア語で、恋を失い、政治で失敗し、挫折の人となった自らを建て直すとともに、ボニファッチオ八世を始めとする法王(教皇)の堕落によって苦しむ教会を建て直すことを企図し、一般のイタリアの知識人に訴えかけようとした。それはトマスという知的光源からのダンテの新しい宣教の光線の輝きなのである。

(注)ダンテのトマス研究が実際にどういうものかはよく解ってはいない。古くはE.GilsonのDante et la philosophiaはひろく知られていた。今回は稲垣教授との対話もあるから、『トマス・アクィナス倫理学の研究』(1997)をトマス研究書として挙げる。

講演「ダンテにおけるトマスの輝き―神曲(天国篇)の現代的解釈―」(2)


(再生時間 23分16秒)

3. 美の問題

輝きは美しい。その輝きの中には時として光源よりも美しい輝きがある場合がある。もとより、それは神を光源とするような大きな光源ではなく、小さな光源luceの場合である。例えば電燈は光源として美しいとは言い難い―特に蛍光燈―が、ある種の工夫をした電気スタンド(笠の色や形)の備品で放射してくる光線は光源よりも美しいことがある。トマス自身の美学は、今人びとが一般に論じている水準よりははるかに興味あるものと思われるが、ダンテはトマスを光源とする輝きではあるが、ことが美の問題となると、ダンテの方が断然すぐれている。(注)

ダンテは各節で第九歌からそこの領域らしさが特色をもって出てくるように作詩しており、地獄篇では第八歌68で予告された la citta c’ha nome Dite ディーテの名をもつ都市つまり地獄の内門は第九歌初行の Quel color che vilta di fuor mi pinse 「顔に浮かび出た怖気(おじけ)の色は」に始まるが、煉獄の内門もその篇の第九歌では l’angelo di Dio(神の天使)が un portier(門番)をしている階段から本式の煉獄になる。そして、天国篇でも第九歌から本当の天国らしい所が述べられる境界は118-120である。天国には城門はない。大地の名残りがここから先は及ばないところが、ここである。それはダンテによってこう歌われる。

Da questo cielo, in cui l’ombra s’appunta  この天は人の世の影の果て
che ‘l vostro mondo face, pria ch’alt’alma  主の凱旋(かちいくさ)に依る誰よりも
del triunfo di Cristo fu assunta.  彼(か)の女(じょ)こそ先に受け入れられた

この詩には多少の註釈が必要であろう。「この天」とは cielo terzo o di Venere(第三天すなわち金星天)で、そこは人の世の影がもう写らなくなる限界点で、つまり天国的超越が始まる所である。「人の世」と訳した原文は il vostro mundo(あなた方の世界)であって、ベアトリーチェがダンテたちのいる現世のことを意味するのでこのようにした。もとよりそうすることによって八・七の訳詩の口調を守るためと、またさらに大切なのは意味をわかりやすくするためである。「主の凱旋に依る誰よりも」と訳したところの直訳は「キリストの大勝利につき従った多くの人びとの中でほかの誰よりも先に彼女こそが先にここに(天国に)受け入れられた」となり、その彼女とは115行目に名があげられているラハブ(Raab)のことである。この女性はエリコの遊女であったが「ユシュア記」2章にあるように預言者ヨシュアの部下二人をかくまった。命がけで天主の聖人を助けたこの一度の美しい心の行為によってラハブは、救主キリストの洗礼を受けられなかった旧約時代の遊女であったのに天国に迎えられていたのである。

Danteはここでトマスにおいて必ずしも明瞭ではなかった二つの美(pulchrum)をあげている。ひとつは人間に何かpathetiqueなあこがれをおこさせる金星(venere)の輝きを自然美として強調していることであり、いまひとつは命を賭けて神のためにつくすことの美しさ、つまり正しさや善とはどこが違う行為の美、精神の美を強調していることである。周知のようにトマスは『神学大全』の中で、「美は明快と調和によって成る(Pulchrum consistit…in quadam claritate et debita proportione)」(Summa ThedogiaⅡ-Ⅲ.Q.180 art2 ad 3)という。ところで claritas(明快)とは限定が明確であり、proportioとは比例的対比が明確であり、前者は対象の、後者は関係の客観的認識の成果である。このようなトマスの美の幾何学的、数学的限定性に対してダンテの美には、

ma per la vista che s’avvalorava  私の視力は見つつ強まり
in me guardando, una sola parvenza,  唯一の姿が多様に見える。
mutandom’io, a me si travagliava. 私の変化で変わってみえた。

と天国篇三十三歌112-114行で歌われているように、神秘の深まりがある。天国はその意味で人間が無限者である神に無限に近づこうとする生ける努力のむくわれる所なのである。
そこにはトマスにおける知性の透明性に対し、ダンテの知性の輝きには神秘への対応がある。

(注)ダンテの美学をかれの哲学論文を中心に論じた出色の論文がある。淺岡 潔「ダンテの美学」(ムネモシュネー9号.P.41-5)

講演「ダンテにおけるトマスの輝き―神曲(天国篇)の現代的解釈―」(3)


(再生時間 7分49秒)

4.至福直観 (visio beatifica)

Aristotelesの哲学は人生において何を求めていたか。
その目的は幸福(εὐδαιμονία)すなわちbeatitudoであった。人間は知的存在であり、真理を求めているから、その幸福は結局真理の「知的直観の生」(ὁ βίος θεωρητικός)であった。その哲学を補完したトマスの場合、「完全な至福」(beatitude perfecta)とはアリストテレースにおけるようなこの世における知的直観ではなく、「神によって天使と同じく天国で与えられる事が約束されているものである」( Promittitur nobis a Deo beatitude perfecta, quando erimus siant Angeli in coelo. )(Summa Theol, I-II, Q3. ant-2 ad4 )。しかし、この形の完全な至福とはあくまで神を眺めること、仰ぎ見ること、知的直観である。これは光源(lux)とその反射光線(lumen)の照応のイメージである。それは光源と反射光の合成の煌きである。

Danteの場合は美における輝きが神秘への深まりであったと同様、天国篇での人間の存在はトマスの考えを足場として光源としての神への差し迫りが天においてあるけれども、それは光源の中へ呼びこまれそこで一つとなるunio mystica(神秘的一致)が成立することである。

E’ mi ricorda ch’io fui piu ardito 思い出せばわれ このためにこそ
per questo a sostener, tanto ch’i’ giunsi いよいよ心を堅くして耐え
l’aspetto mio col valore infinito.  わが目を無限の力に合わす
(Par. XXXIII 79-81)

これはむしろトマスにおける客観的観想のきらめきを光源そのものの光輝の中に神秘的一致の完成としてunio mysticaとして存在を委ねることであり、もしかすると人間の輝きとして最高のプラトーン的なenthousiasmos (enthusiasm)の天国における完成と言ってもよかろう。

5.結び

神における一致は愛の完成である。Unio in Deo perfectio amoris est.

コンテンツ名 ダンテフォーラム in 東京 「『神学大全』と『神曲』の対話」
収録日 2005年11月13日
講師 今道友信
簡易プロフィール

講師:今道友信

(英知大学教授・東京大学名誉教授)

肩書などはコンテンツ収録時のものです

会場:新イタリア文化会館
主催:財団法人エンゼル財団・イタリア文化会館・日本経済新聞社
収録映像:著作権者 財団法人エンゼル財団

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