第91回 「朝顔」より その3
自由学園の羽仁夫妻と折口信夫のこと等。源氏は式部卿宮の屋敷へ行き五の宮のところで鼾など耳にし、源典侍(げんのないしのすけ)に再会する。朝顔はつれない。女君(紫の上)が嫉妬する。雪の夕暮れ「童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ」。
講師:岡野弘彦
- 目次
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- はじめに
- 宮の御方に、例の、御物語聞こえたまふに、
- 源典侍といひし人は、尼になりて、この宮の御弟子にてなむ行なふと聞きしかど、
- 「この盛りに挑みたまひし女御、更衣、あるはひたすら亡くなりたまひ、
- 西面には御格子参りたれど、厭ひきこえ顔ならむもいかがとて、一間、二間は下ろさず。
- 今宵は、いとまめやかに聞こえたまひて、
- いふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて出でたまふも、
- げに、人のほどの、をかしきにも、あはれにも、思し知らぬにはあらねど、
- 御兄弟の君達あまたものしたまへど、ひとつ御腹ならねば、
- 大臣は、あながちに思しいらるるにしもあらねど、つれなき御けしきのうれたきに、
- 「あやしく例ならぬ御けしきこそ、心得がたけれ」 とて、
- 雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、
- 月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、
- 「一年、中宮の御前に雪の山作られたりし、世に古りたることなれど、
はじめに
・自由学園と折口信夫
・羽仁もと子さんの思い出
・昔話の語りと相槌(あいづち)
宮の御方に、例の、御物語聞こえたまふに、
宮の御方に、例の、御物語聞こえたまふに、古事どものそこはかとなきうちはじめ、聞こえ尽くしたまへど、御耳もおどろかず、ねぶたきに、宮も欠伸うちしたまひて、
「宵まどひをしはべれば、ものもえ聞こえやらず」
とのたまふほどもなく、鼾とか、聞き知らぬ音すれば、よろこびながら立ち出でたまはむとするに、またいと古めかしきしはぶきうちして、参りたる人あり。
「かしこけれど、聞こし召したらむと頼みきこえさするを、世にある者とも数まへさせたまはぬになむ。院の上は、祖母殿と笑はせたまひし」
など、名のり出づるにぞ、思し出づる。
源典侍といひし人は、尼になりて、この宮の御弟子にてなむ行なふと聞きしかど、
源典侍といひし人は、尼になりて、この宮の御弟子にてなむ行なふと聞きしかど、今まであらむとも尋ね知りたまはざりつるを、あさましうなりぬ。
「その世のことは、みな昔語りになりゆくを、はるかに思ひ出づるも、心細きに、うれしき御声かな。親なしに臥せる旅人と、育みたまへかし」
とて、寄りゐたまへる御けはひに、いとど昔思ひ出でつつ、古りがたくなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにたる口つき、思ひやらるる声づかひの、さすがに舌つきにて、うちされむとはなほ思へり。
「言ひこしほどに」など聞こえかかる、まばゆさよ。「今しも来たる老いのやうに」など、ほほ笑まれたまふものから、ひきかへ、これもあはれなり。
「この盛りに挑みたまひし女御、更衣、あるはひたすら亡くなりたまひ、
「この盛りに挑みたまひし女御、更衣、あるはひたすら亡くなりたまひ、あるはかひなくて、はかなき世にさすらへたまふもあべかめり。入道の宮などの御齢よ。あさましとのみ思さるる世に、年のほど身の残り少なげさに、心ばへなども、ものはかなく見えし人の、生きとまりて、のどやかに行なひをもうちして過ぐしけるは、なほすべて定めなき世なり」
と思すに、ものあはれなる御けしきを、心ときめきに思ひて、若やぐ。
「年経れどこの契りこそ忘られね
親の親とか言ひし一言」
と聞こゆれば、疎ましくて、
「身を変へて後も待ち見よこの世にて
親を忘るるためしありやと
頼もしき契りぞや。今のどかにぞ、聞こえさすべき」
とて、立ちたまひぬ。
西面には御格子参りたれど、厭ひきこえ顔ならむもいかがとて、一間、二間は下ろさず。
西面には御格子参りたれど、厭ひきこえ顔ならむもいかがとて、一間、二間は下ろさず。月さし出でて、薄らかに積もれる雪の光りあひて、なかなかいとおもしろき夜のさまなり。
「ありつる老いらくの心げさうも、良からぬものの世のたとひとか聞きし」と思し出でられて、をかしくなむ。
今宵は、いとまめやかに聞こえたまひて、
今宵は、いとまめやかに聞こえたまひて、
「一言、憎しなども、人伝てならでのたまはせむを、思ひ絶ゆるふしにもせむ」
と、おり立ちて責めきこえたまへど、
「昔、われも人も若やかに、罪許されたりし世にだに、故宮などの心寄せ思したりしを、なほあるまじく恥づかしと思ひきこえてやみにしを、世の末に、さだすぎ、つきなきほどにて、一声もいとまばゆからむ」
と思して、さらに動きなき御心なれば、「あさましう、つらし」と思ひきこえたまふ。
さすがに、はしたなくさし放ちてなどはあらぬ人伝ての御返りなどぞ、心やましきや。夜もいたう更けゆくに、風のけはひ、はげしくて、まことにいともの心細くおぼゆれば、さまよきほど、おし拭ひたまひて、
「つれなさを昔に懲りぬ心こそ
人のつらきに添へてつらけれ
心づからの」
とのたまひすさぶるを、
「げに」
「かたはらいたし」
と、人びと、例の、聞こゆ。
「あらためて何かは見えむ人のうへに
かかりと聞きし心変はりを
昔に変はることは、ならはず」
など聞こえたまへり。
いふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて出でたまふも、
いふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて出でたまふも、いと若々しき心地したまへば、
「いとかく、世の例になりぬべきありさま、漏らしたまふなよ。ゆめゆめ。いさら川などもなれなれしや」
とて、せちにうちささめき語らひたまへど、何ごとにかあらむ。人びとも、
「あな、かたじけな。あながちに情けおくれても、もてなしきこえたまふらむ」
「軽らかにおし立ちてなどは見えたまはぬ御けしきを。心苦しう」
と言ふ。
げに、人のほどの、をかしきにも、あはれにも、思し知らぬにはあらねど、
げに、人のほどの、をかしきにも、あはれにも、思し知らぬにはあらねど、
「もの思ひ知るさまに見えたてまつるとて、おしなべての世の人のめできこゆらむ列にや思ひなされむ。かつは、軽々しき心のほども見知りたまひぬべく、恥づかしげなめる御ありさまを」と思せば、「なつかしからむ情けも、いとあいなし。よその御返りなどは、うち絶えで、おぼつかなかるまじきほどに聞こえたまひ、人伝ての御いらへ、はしたなからで過ぐしてむ。年ごろ、沈みつる罪失ふばかり御行なひを」とは思し立てど、「にはかにかかる御ことをしも、もて離れ顔にあらむも、なかなか今めかしきやうに見え聞こえて、人のとりなさじやは」と、世の人の口さがなさを思し知りにしかば、かつ、さぶらふ人にもうちとけたまはず、いたう御心づかひしたまひつつ、やうやう御行なひをのみしたまふ。
御兄弟の君達あまたものしたまへど、ひとつ御腹ならねば、
御兄弟の君達あまたものしたまへど、ひとつ御腹ならねば、いとうとうとしく、宮のうちいとかすかになり行くままに、さばかりめでたき人の、ねむごろに御心を尽くしきこえたまへば、皆人、心を寄せきこゆるも、ひとつ心と見ゆ。
大臣は、あながちに思しいらるるにしもあらねど、つれなき御けしきのうれたきに、
大臣は、あながちに思しいらるるにしもあらねど、つれなき御けしきのうれたきに、負けてやみなむも口惜しく、げにはた、人の御ありさま、世のおぼえことに、あらまほしく、ものを深く思し知り、世の人の、とあるかかるけぢめも聞き集めたまひて、昔よりもあまた経まさりて思さるれば、今さらの御あだけも、かつは世のもどきをも思しながら、
「むなしからむは、いよいよ人笑へなるべし。いかにせむ」
と、御心動きて、二条院に夜離れ重ねたまふを、女君は、たはぶれにくくのみ思す。忍びたまへど、いかがうちこぼるる折もなからむ。
「あやしく例ならぬ御けしきこそ、心得がたけれ」 とて、
「あやしく例ならぬ御けしきこそ、心得がたけれ」
とて、御髪をかきやりつつ、いとほしと思したるさまも、絵に描かまほしき御あはひなり。
「宮亡せたまひて後、主上のいとさうざうしげにのみ世を思したるも、心苦しう見たてまつり、太政大臣もものしたまはで、見譲る人なきことしげさになむ。このほどの絶え間などを、見ならはぬことに思すらむも、ことわりに、あはれなれど、今はさりとも、心のどかに思せ。おとなびたまひためれど、まだいと思ひやりもなく、人の心も見知らぬさまにものしたまふこそ、らうたけれ」
など、まろがれたる御額髪、ひきつくろひたまへど、いよいよ背きてものも聞こえたまはず。
「いといたく若びたまへるは、誰がならはしきこえたるぞ」
とて、「常なき世に、かくまで心置かるるもあぢきなのわざや」と、かつはうち眺めたまふ。
「斎院にはかなしごと聞こゆるや、もし思しひがむる方ある。それは、いともて離れたることぞよ。おのづから見たまひてむ。昔よりこよなうけどほき御心ばへなるを、さうざうしき折々、ただならで聞こえ悩ますに、かしこもつれづれにものしたまふ所なれば、たまさかの応へなどしたまへど、まめまめしきさまにもあらぬを、かくなむあるとしも、愁へきこゆべきことにやは。うしろめたうはあらじとを、思ひ直したまへ」
など、日一日慰めきこえたまふ。
雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、
雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮に、人の御容貌も光まさりて見ゆ。
「時々につけても、人の心を移すめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折なれ。すさまじき例に言ひ置きけむ人の心浅さよ」
とて、御簾巻き上げさせたまふ。
月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、
月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ。
をかしげなる姿、頭つきども、月に映えて、大きやかに馴れたるが、さまざまの衵乱れ着、帯しどけなき宿直姿、なまめいたるに、こよなうあまれる髪の末、白きにはましてもてはやしたる、いとけざやかなり。
小さきは、童げてよろこび走るに、扇なども落して、うちとけ顔をかしげなり。
いと多うまろばさむと、ふくつけがれど、えも押し動かさでわぶめり。かたへは、東のつまなどに出でゐて、心もとなげに笑ふ。
「一年、中宮の御前に雪の山作られたりし、世に古りたることなれど、
「一年、中宮の御前に雪の山作られたりし、世に古りたることなれど、なほめづらしくもはかなきことをしなしたまへりしかな。何の折々につけても、口惜しう飽かずもあるかな。
いとけどほくもてなしたまひて、くはしき御ありさまを見ならしたてまつりしことはなかりしかど、御交じらひのほどに、うしろやすきものには思したりきかし。
うち頼みきこえて、とあることかかる折につけて、何ごとも聞こえかよひしに、もて出でてらうらうじきことも見えたまはざりしかど、いふかひあり、思ふさまに、はかなきことわざをもしなしたまひしはや。
コンテンツ名 | 源氏物語全講会 第91回 「朝顔」より その3 |
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収録日 | 2007年3月3日 |
講師 | 岡野弘彦(國學院大學名誉教授) |
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