第108回 「螢」より その1
相聞歌に触れてから「蛍」に。対の姫君(玉葛)には思いもかけなかった心配事が加わった。兵部卿宮はしきりに便りを寄せ、尋ねて来た。源氏は大層心配りをして、蛍の光りで姫の姿を浮かび上がらせる。兵部卿宮と玉葛は贈答する。
講師:岡野弘彦
- 目次
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- はじめに
- 今はかく重々しきほどに、
- 対の姫君こそ、いとほしく、思ひのほかなる思ひ添ひて、
- 大臣も、うち出でそめたまひては、なかなか苦しく思せど、
- 兵部卿宮などは、まめやかにせめきこえたまふ。
- 殿は、あいなくおのれ心懸想して、宮を待ちきこえたまふも知りたまはで、
- 夕闇過ぎて、おぼつかなき空のけしきの曇らはしきに、
- 姫君は、東面に引き入りて大殿籠もりにけるを、
- 何くれと言長き御いらへ聞こえたまふこともなく、思しやすらふに、
- 宮は、人のおはするほど、さばかりと推し量りたまふが、
- 姫君は、かくさすがなる御けしきを、
- 五日には、馬場の御殿に出でたまひけるついでに、渡りたまへり。
- 宮より御文あり。白き薄様にて、御手はいとよしありて書きなしたまへり。
はじめに
・「粛々と」の使い方について
・前登志夫さんが亡くなった時の追悼文のこと
・日本文学の大事な領域としてまだ残っている「相聞」
・河東碧梧桐が亡くなった時の高浜虚子の追悼句
今はかく重々しきほどに、
今はかく重々しきほどに、よろづのどやかに思ししづめたる御ありさまなれば、頼みきこえさせたまへる人びと、さまざまにつけて、皆思ふさまに定まり、ただよはしからで、あらまほしくて過ぐしたまふ。
対の姫君こそ、いとほしく、思ひのほかなる思ひ添ひて、
対の姫君こそ、いとほしく、思ひのほかなる思ひ添ひて、いかにせむと思し乱るめれ。かの監が憂かりしさまには、なずらふべきけはひならねど、かかる筋に、かてけも人の思ひ寄りきこゆべきことならねば、心ひとつに思しつつ、「様ことに疎まし」と思ひきこえたまふ。
何ごとをも思し知りにたる御齢なれば、とざまかうざまに思し集めつつ、母君のおはせずなりにける口惜しさも、またとりかへし惜しく悲しくおぼゆ。
大臣も、うち出でそめたまひては、なかなか苦しく思せど、
大臣も、うち出でそめたまひては、なかなか苦しく思せど、人目を憚りたまひつつ、はかなきことをもえ聞こえたまはず、苦しくも思さるるままに、しげく渡りたまひつつ、御前の人遠く、のどやかなる折は、ただならずけしきばみきこえたまふごとに、胸つぶれつつ、けざやかにはしたなく聞こゆべきにはあらねば、ただ見知らぬさまにもてなしきこえたまふ。
人ざまのわららかに、気近くものしたまへば、いたくまめだち、心したまへど、なほをかしく愛敬づきたるけはひのみ見えたまへり。
兵部卿宮などは、まめやかにせめきこえたまふ。
兵部卿宮などは、まめやかにせめきこえたまふ。御労のほどはいくばくならぬに、五月雨になりぬる愁へをしたまひて、
「すこし気近きほどをだに許したまはば、思ふことをも、片端はるけてしがな」
と、聞こえたまへるを、殿御覧じて、
「なにかは。この君達の好きたまはむは、見所ありなむかし。もて離れてな聞こえたまひそ。御返り、時々聞こえたまへ」
とて、教へて書かせたてまつりたまへど、いとどうたておぼえたまへば、「乱り心地悪し」とて、聞こえたまはず。
人びとも、ことにやむごとなく寄せ重きなども、をさをさなし。ただ、母君の御叔父なりける、宰相ばかりの人の娘にて、心ばせなど口惜しからぬが、世に衰へ残りたるを、尋ねとりたまへる、宰相の君とて、手などもよろしく書き、おほかたも大人びたる人なれば、さるべき折々の御返りなど書かせたまへば、召し出でて、言葉などのたまひて書かせたまふ。
ものなどのたまふさまを、ゆかしと思すなるべし。
正身は、かくうたてあるもの嘆かしさの後は、この宮などは、あはれげに聞こえたまふ時は、すこし見入れたまふ時もありけり。何かと思ふにはあらず、「かく心憂き御けしき見ぬわざもがな」と、さすがにされたるところつきて思しけり。
殿は、あいなくおのれ心懸想して、宮を待ちきこえたまふも知りたまはで、
殿は、あいなくおのれ心懸想して、宮を待ちきこえたまふも知りたまはで、よろしき御返りのあるをめづらしがりて、いと忍びやかにおはしましたり。
妻戸の間に御茵参らせて、御几帳ばかりを隔てにて、近きほどなり。
いといたう心して、空薫物心にくきほどに匂はして、つくろひおはするさま、親にはあらで、むつかしきさかしら人の、さすがにあはれに見えたまふ。宰相の君なども、人の御いらへ聞こえむこともおぼえず、恥づかしくてゐたるを、「埋もれたり」と、ひきつみたまへば、いとわりなし。
夕闇過ぎて、おぼつかなき空のけしきの曇らはしきに、
夕闇過ぎて、おぼつかなき空のけしきの曇らはしきに、うちしめりたる宮の御けはひも、いと艶なり。うちよりほのめく追風も、いとどしき御匂ひのたち添ひたれば、いと深く薫り満ちて、かねて思ししよりもをかしき御けはひを、心とどめたまひけり。
うち出でて、思ふ心のほどをのたまひ続けたる言の葉、おとなおとなしく、ひたぶるに好き好きしくはあらで、いとけはひことなり。大臣、いとをかしと、ほの聞きおはす。
姫君は、東面に引き入りて大殿籠もりにけるを、
姫君は、東面に引き入りて大殿籠もりにけるを、宰相の君の御消息伝へに、ゐざり入りたるにつけて、
「いとあまり暑かはしき御もてなしなり。よろづのこと、さまに従ひてこそめやすけれ。ひたぶるに若びたまふべきさまにもあらず。この宮たちをさへ、さし放ちたる人伝てに聞こえたまふまじきことなりかし。御声こそ惜しみたまふとも、すこし気近くだにこそ」
など、諌めきこえたまへど、いとわりなくて、ことづけてもはひ入りたまひぬべき御心ばへなれば、とざまかうざまにわびしければ、すべり出でて、母屋の際なる御几帳のもとに、かたはら臥したまへる。
何くれと言長き御いらへ聞こえたまふこともなく、思しやすらふに、
何くれと言長き御いらへ聞こえたまふこともなく、思しやすらふに、寄りたまひて、御几帳の帷子を一重うちかけたまふにあはせて、さと光るもの。紙燭をさし出でたるかとあきれたり。
蛍を薄きかたに、この夕つ方いと多く包みおきて、光をつつみ隠したまへりけるを、さりげなく、とかくひきつくろふやうにて。
にはかにかく掲焉に光れるに、あさましくて、扇をさし隠したまへるかたはら目、いとをかしげなり。
「おどろかしき光見えば、宮も覗きたまひなむ。わが女と思すばかりのおぼえに、かくまでのたまふなめり。人ざま容貌など、いとかくしも具したらむとは、え推し量りたまはじ。いとよく好きたまひぬべき心、惑はさむ」
と、かまへありきたまふなりけり。まことのわが姫君をば、かくしも、もて騷ぎたまはじ、うたてある御心なりけり。
こと方より、やをらすべり出でて、渡りたまひぬ。
宮は、人のおはするほど、さばかりと推し量りたまふが、
宮は、人のおはするほど、さばかりと推し量りたまふが、すこし気近きけはひするに、御心ときめきせられたまひて、えならぬ羅の帷子の隙より見入れたまへるに、一間ばかり隔てたる見わたしに、かくおぼえなき光のうちほのめくを、をかしと見たまふ。
ほどもなく紛らはして隠しつ。されどほのかなる光、艶なることのつまにもしつべく見ゆ。ほのかなれど、そびやかに臥したまへりつる様体のをかしかりつるを、飽かず思して、げに、このこと御心にしみにけり。
「鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに
人の消つには消ゆるものかは
思ひ知りたまひぬや」
と聞こえたまふ。かやうの御返しを、思ひまはさむもねぢけたれば、疾きばかりをぞ。
「声はせで身をのみ焦がす蛍こそ
言ふよりまさる思ひなるらめ」
など、はかなく聞こえなして、御みづからは引き入りたまひにければ、いとはるかにもてなしたまふ愁はしさを、いみじく怨みきこえたまふ。
好き好きしきやうなれば、ゐたまひも明かさで、軒の雫も苦しさに、濡れ濡れ夜深く出でたまひぬ。時鳥などかならずうち鳴きけむかし。うるさければこそ聞きも止めね。
「御けはひなどのなまめかしさは、いとよく大臣の君に似たてまつりたまへり」と、人びともめできこえけり。昨夜、いと女親だちてつくろひたまひし御けはひを、うちうちは知らで、「あはれにかたじけなし」と皆言ふ。
姫君は、かくさすがなる御けしきを、
姫君は、かくさすがなる御けしきを、
「わがみづからの憂さぞかし。親などに知られたてまつり、世の人めきたるさまにて、かやうなる御心ばへならましかば、などかはいと似げなくもあらまし。人に似ぬありさまこそ、つひに世語りにやならむ」
と、起き臥し思しなやむ。さるは、「まことにゆかしげなきさまにはもてなし果てじ」と、大臣は思しけり。なほ、さる御心癖なれば、中宮なども、いとうるはしくや思ひきこえたまへる、ことに触れつつ、ただならず聞こえ動かしなどしたまへど、やむごとなき方の、およびなくわづらはしさに、おり立ちあらはし聞こえ寄りたまはぬを、この君は、人の御さまも、気近く今めきたるに、おのづから思ひ忍びがたきに、折々、人見たてまつりつけば疑ひ負ひぬべき御もてなしなどは、うち交じるわざなれど、ありがたく思し返しつつ、さすがなる御仲なりけり。
五日には、馬場の御殿に出でたまひけるついでに、渡りたまへり。
五日には、馬場の御殿に出でたまひけるついでに、渡りたまへり。
「いかにぞや。宮は夜や更かしたまひし。いたくも馴らしきこえじ。わづらはしき気添ひたまへる人ぞや。人の心破り、ものの過ちすまじき人は、かたくこそありけれ」
など、活けみ殺しみ戒めおはする御さま、尽きせず若くきよげに見えたまふ。艶も色もこぼるばかりなる御衣に、直衣はかなく重なれるあはひも、いづこに加はれるきよらにかあらむ、この世の人の染め出だしたると見えず、常の色も変へぬ文目も、今日はめづらかに、をかしくおぼゆる薫りなども、「思ふことなくは、をかしかりぬべき御ありさまかな」と姫君思す。
宮より御文あり。白き薄様にて、御手はいとよしありて書きなしたまへり。
宮より御文あり。白き薄様にて、御手はいとよしありて書きなしたまへり。見るほどこそをかしかりけれ、まねび出づれば、ことなることなしや。
「今日さへや引く人もなき水隠れに
生ふる菖蒲の根のみ泣かれむ」
例にも引き出でつべき根に結びつけたまへれば、「今日の御返り」などそそのかしおきて、出でたまひぬ。これかれも、「なほ」と聞こゆれば、御心にもいかが思しけむ、
「あらはれていとど浅くも見ゆるかな
菖蒲もわかず泣かれける根の
若々しく」
とばかり、ほのかにぞあめる。「手を今すこしゆゑづけたらば」と、宮は好ましき御心に、いささか飽かぬことと見たまひけむかし。
楽玉など、えならぬさまにて、所々より多かり。思し沈みつる年ごろの名残なき御ありさまにて、心ゆるびたまふことも多かるに、「同じくは、人の疵つくばかりのことなくてもやみにしがな」と、いかが思さざらむ。
コンテンツ名 | 源氏物語全講会 第108回 「螢」より その1 |
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収録日 | 2008年5月10日 |
講師 | 岡野弘彦(國學院大學名誉教授) |
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