源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第109回 「螢」より その2

「黒衣の旅人 折口信夫」に触れ、本文に。六条の屋敷の馬場で競射が行われ、女童は今風で見物する。大臣(源氏)は花散里のところで、別々に休んだ。五月雨が続き、六条院の女性の方々は絵物語などを心慰みにし、源氏は物語について語る。

黒衣の旅人・折口信夫

・中沢新一著『古代から来た未来人 折口信夫』(ちくまプリマー新書)
・宗教的な心を伝え、連帯の感動を呼び起こす古代の聖なる旅 ――まれびとの思想
・人麻呂、黒人、西行、そして折口――「黒衣の旅人」(白秋)
・折口の真髄は「古語の見事な使い手」
・言葉の中に古代の心を見る

殿は、東の御方にもさしのぞきたまひて、

 殿は、東の御方にもさしのぞきたまひて、
 「中将の、今日の司の手結ひのついでに、男ども引き連れてものすべきさまに言ひしを、さる心したまへ。まだ明きほどに来なむものぞ。あやしく、ここにはわざとならず忍ぶることをも、この親王たちの聞きつけて、訪らひものしたまへば、おのづからことことしくなむあるを、用意したまへ」
 など聞こえたまふ。

馬場の御殿は、こなたの廊より見通すほど遠からず。

 馬場の御殿は、こなたの廊より見通すほど遠からず。
 「若き人びと、渡殿の戸開けて物見よや。左の司に、いとよしある官人多かるころなり。せうせうの殿上人に劣るまじ」
 とのたまへば、物見むことをいとをかしと思へり。
 対の御方よりも、童女など、物見に渡り来て、廊の戸口に御簾青やかに掛けわたして、今めきたる裾濃の御几帳ども立てわたし、童、下仕へなどさまよふ。

菖蒲襲の衵、二藍の羅の汗衫着たる童女ぞ、西の対のなめる。

 菖蒲襲の衵、二藍の羅の汗衫着たる童女ぞ、西の対のなめる。
 好ましく馴れたる限り四人、下仕へは、楝の裾濃の裳、撫子の若葉の色したる唐衣、今日のよそひどもなり。
 こなたのは、濃き一襲に、撫子襲の汗衫などおほどかにて、おのおの挑み顔なるもてなし、見所あり。
 若やかなる殿上人などは、目をたててけしきばむ。未の時に、馬場の御殿に出でたまひて、げに親王たちおはし集ひたり。手結ひの公事にはさま変りて、次将たちかき連れ参りて、さまことに今めかしく遊び暮らしたまふ。
 女は、何のあやめも知らぬことなれど、舎人どもさへ艶なる装束を尽くして、身を投げたる手まどはしなどを見るぞ、をかしかりける。
 南の町も通して、はるばるとあれば、あなたにもかやうの若き人どもは見けり。「打毬楽」「落蹲」など遊びて、勝ち負けの乱声どもののしるも、夜に入り果てて、何事も見えずなりぬ果てぬ。舎人どもの禄、品々賜はる。いたく更けて、人びと皆あかれたまひぬ。

大臣は、こなたに大殿籠もりぬ。物語など聞こえたまひて、

 大臣は、こなたに大殿籠もりぬ。物語など聞こえたまひて、
 「兵部卿宮の、人よりはこよなくものしたまふかな。容貌などはすぐれねど、用意けしきなど、よしあり、愛敬づきたる君なり。忍びて見たまひつや。よしといへど、なほこそあれ」
 とのたまふ。
 「御弟にこそものしたまへど、ねびまさりてぞ見えたまひける。年ごろ、かく折過ぐさず渡り、睦びきこえたまふと聞きはべれど、昔の内裏わたりにてほの見たてまつりしのち、おぼつかなしかし。いとよくこそ、容貌などねびまさりたまひにけれ。帥の親王よくものしたまふめれど、けはひ劣りて、大君けしきにぞものしたまひける」
 とのたまへば、「ふと見知りたまひにけり」と思せど、ほほ笑みて、なほあるを、良しとも悪しともかけたまはず。
 人の上を難つけ、落としめざまのこと言ふ人をば、いとほしきものにしたまへば、
 「右大将などをだに、心にくき人にすめるを、何ばかりかはある。近きよすがにて見むは、飽かぬことにやあらむ」
 と、見たまへど、言に表はしてものたまはず。

今はただおほかたの御睦びにて、御座なども異々にて大殿籠もる。

 今はただおほかたの御睦びにて、御座なども異々にて大殿籠もる。「などてかく離れそめしぞ」と、殿は苦しがりたまふ。おほかた、何やかやともそばみきこえたまはで、年ごろかく折ふしにつけたる御遊びどもを、人伝てに見聞きたまひけるに、今日めづらしかりつることばかりをぞ、この町のおぼえきらきらしと思したる。

 「その駒もすさめぬ草と名に立てる
  汀の菖蒲今日や引きつる」

 とおほどかに聞こえたまふ。何ばかりのことにもあらねど、あはれと思したり。

 「鳰鳥に影をならぶる若駒は
  いつか菖蒲に引き別るべき」

 あいだちなき御ことどもなりや。
 「朝夕の隔てあるやうなれど、かくて見たてまつるは、心やすくこそあれ」
 戯れごとなれど、のどやかにおはする人ざまなれば、静まりて聞こえなしたまふ。
 床をば譲りきこえたまひて、御几帳引き隔てて大殿籠もる。気近くなどあらむ筋をば、いと似げなかるべき筋に、思ひ離れ果てきこえたまへれば、あながちにも聞こえたまはず。

長雨例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、

 長雨例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、御方々、絵物語などのすさびにて、明かし暮らしたまふ。明石の御方は、さやうのことをもよしありてしなしたまひて、姫君の御方にたてまつりたまふ。
 西の対には、ましてめづらしくおぼえたまふことの筋なれば、明け暮れ書き読みいとなみおはす。つきなからぬ若人あまたあり。さまざまにめづらかなる人の上などを、真にや偽りにや、言ひ集めたるなかにも、「わがありさまのやうなるはなかりけり」と見たまふ。
 『住吉』の姫君の、さしあたりけむ折はさるものにて、今の世のおぼえもなほ心ことなめるに、主計頭が、ほとほとしかりけむなどぞ、かの監がゆゆしさを思しなずらへたまふ。

殿も、こなたかなたにかかるものどもの散りつつ、御目に離れねば、

 殿も、こなたかなたにかかるものどもの散りつつ、御目に離れねば、
 「あな、むつかし。女こそ、ものうるさがらず、人に欺かれむと生まれたるものなれ。ここらのなかに、真はいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられたまひて、暑かはしき五月雨の、髪の乱るるも知らで、書きたまふよ」
 とて、笑ひたまふものから、また、
 「かかる世の古言ならでは、げに、何をか紛るることなきつれづれを慰めまし。さても、この偽りどものなかに、げにさもあらむとあはれを見せ、つきづきしく続けたる、はた、はかなしごとと知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫君のもの思へる見るに、かた心つくかし。
 また、いとあるまじきことかなと見る見る、おどろおどろしくとりなしけるが目おどろきて、静かにまた聞くたびぞ、憎けれど、ふとをかしき節、あらはなるなどもあるべし。
 このころ、幼き人の女房などに時々読まするを立ち聞けば、ものよく言ふものの世にあるべきかな。虚言をよくしなれたる口つきよりぞ言ひ出だすらむとおぼゆれど、さしもあらじや」
 とのたまへば、
 「げに、偽り馴れたる人や、さまざまにさも汲みはべらむ。ただいと真のこととこそ思うたまへられけれ」
 とて、硯をおしやりたまへば、
 「こちなくも聞こえ落としてけるかな。神代より世にあることを、記しおきけるななり。『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」
 とて、笑ひたまふ。

「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、

 「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、善きも悪しきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠めがたくて、言ひおき初めたるなり。善きさまに言ふとては、善きことの限り選り出でて、人に従はむとては、また悪しきさまの珍しきことを取り集めたる、皆かたがたにつけたる、この世の他のことならずかし。
 人の朝廷の才、作りやう変はる、同じ大和の国のことなれば、昔今のに変はるべし、深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、ひたぶるに虚言と言ひ果てむも、ことの心違ひてなむありける。
 仏の、いとうるはしき心にて説きおきたまへる御法も、方便といふことありて、悟りなきものは、ここかしこ違ふ疑ひを置きつべくなむ。『方等経』の中に多かれど、言ひもてゆけば、ひとつ旨にありて、菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人の善き悪しきばかりのことは変はりける。
 よく言へば、すべて何ごとも空しからずなりぬや」
 と、物語をいとわざとのことにのたまひなしつ。

「さて、かかる古言の中に、まろがやうに実法なる痴者の物語はありや。

 「さて、かかる古言の中に、まろがやうに実法なる痴者の物語はありや。いみじく気遠きものの姫君も、御心のやうにつれなく、そらおぼめきしたるは世にあらじな。いざ、たぐひなき物語にして、世に伝へさせむ」
 と、さし寄りて聞こえたまへば、顔を引き入れて、
 「さらずとも、かく珍かなることは、世語りにこそはなりはべりぬべかめれ」
 とのたまへば、
 「珍かにやおぼえたまふ。げにこそ、またなき心地すれ」
 とて、寄りゐたまへるさま、いとあざれたり。

「思ひあまり昔の跡を訪ぬれど親に背ける子ぞたぐひなき

 「思ひあまり昔の跡を訪ぬれど
  親に背ける子ぞたぐひなき
 不孝なるは、仏の道にもいみじくこそ言ひたれ」

 とのたまへど、顔ももたげたまはねば、御髪をかきやりつつ、いみじく怨みたまへば、からうして、

 「古き跡を訪ぬれどげになかりけり
  この世にかかる親の心は」

 と聞こえたまふも、心恥づかしければ、いといたくも乱れたまはず。
 かくして、いかなるべき御ありさまならむ。

コンテンツ名 源氏物語全講会 第109回 「螢」より その2
収録日 2008年5月31日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

平成20年春期講座

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