第120回 「藤袴」より その2
服喪の期間が終わり、宮中へ出仕するのは十月のころに、と源氏は思う。玉葛に好意を持つ方々は焦っている。頭中将(柏木)が殿(父の内大臣)の使いでやってくる。(髭黒の)大将は懸想に励んでいる。最後に、慶應での折口信夫『源氏物語全講会』から『源氏物語』和歌についての講義を紹介。
講師:岡野弘彦
- 目次
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- 御けしきはけざやかなれど、なほ、疑ひは置かる。
- かくて御服など脱ぎたまひて、
- まことの御はらからの君達は、え寄り来ず、「宮仕へのほどの御後見を」と、
- みづから聞こえたまはむことはしも、なほつつましければ、
- 「いでや、をこがましきことも、えぞ聞こえさせぬや。
- 「妹背山深き道をば尋ねずて緒絶の橋に踏み迷ひけるよ」
- 大将は、この中将は同じ右の次将なれば、常に呼び取りつつ、
- この大将は、春宮の女御の御はらからにぞおはしける。
- 九月にもなりぬ。初霜むすぼほれ、艶なる朝に、例の、とりどりなる御後見どもの、
- 式部卿宮の左兵衛督は、殿の上の御はらからぞかし。
- 宮の御返りをぞ、いかが思すらむ、ただいささかにて、
- 源氏物語の和歌について ― 折口信夫博士の講義から ―
御けしきはけざやかなれど、なほ、疑ひは置かる。
御けしきはけざやかなれど、なほ、疑ひは置かる。大臣も、
「さりや。かく人の推し量る、案に落つることもあらましかば、いと口惜しくねぢけたらまし。かの大臣に、いかで、かく心清きさまを知らせたてまつらむ」
と思すにぞ、「げに、宮仕への筋にて、けざやかなるまじく紛れたるおぼえを、かしこくも思ひ寄りたまひけるかな」と、むくつけく思さる。
かくて御服など脱ぎたまひて、
かくて御服など脱ぎたまひて、
「月立たば、なほ参りたまはむこと忌あるべし。十月ばかりに」
と思しのたまふを、内裏にも心もとなく聞こし召し、聞こえたまふ人びとは、誰も誰も、いと口惜しくて、この御参りの先にと、心寄せのよすがよすがに責めわびたまへど、
「吉野の滝をせ堰かむよりも難きことなれば、いとわりなし」
と、おのおのいらふ。
中将も、なかなかなることをうち出でて、「いかに思すらむ」と苦しきままに、駆けりありきて、いとねむごろに、おほかたの御後見を思ひあつかひたるさまにて、追従しありきたまふ。たはやすく、軽らかにうち出でては聞こえかかりたまはず、めやすくもてしづめたまへり。
まことの御はらからの君達は、え寄り来ず、「宮仕へのほどの御後見を」と、
まことの御はらからの君達は、え寄り来ず、「宮仕へのほどの御後見を」と、おのおの心もとなくぞ思ひける。
頭中将、心を尽くしわびしことは、かき絶えにたるを、「うちつけなりける御心かな」と、人びとはをかしがるに、殿の御使にておはしたり。なほもて出でず、忍びやかに御消息なども聞こえ交はしたまひければ、月の明かき夜、桂の蔭に隠れてものしたまへり。見聞き入るべくもあらざりしを、名残なく南の御簾の前に据ゑたてまつる。
みづから聞こえたまはむことはしも、なほつつましければ、
みづから聞こえたまはむことはしも、なほつつましければ、宰相の君していらへ聞こえたまふ。
「なにがしらを選びてたてまつりたまへるは、人伝てならぬ御消息にこそはべらめ。かくもの遠くては、いかが聞こえさすべからむ。みづからこそ、数にもはべらねど、絶えぬたとひもはべなるは。いかにぞや、古代のことなれど、頼もしくぞ思ひたまへける」
とて、ものしと思ひたまへり。
「げに、年ごろの積もりも取り添へて、聞こえまほしけれど、日ごろあやしく悩ましくはべれば、起き上がりなどもえしはべらでなむ。かくまでとがめたまふも、なかなか疎々しき心地なむしはべりける」
と、いとまめだちて聞こえ出だしたまへり。
「悩ましく思さるらむ御几帳のもとをば、許させたまふまじくや。よしよし。げに、聞こえさするも、心地なかりけり」
とて、大臣の御消息ども忍びやかに聞こえたまふ用意など、人には劣りたまはず、いとめやすし。
「参りたまはむほどの案内、詳しきさまもえ聞かぬを、うちうちにのたまはむなむよからむ。何ごとも人目に憚りて、え参り来ず、聞こえぬことをなむ、なかなかいぶせく思したる」
など、語りきこえたまふついでに、
「いでや、をこがましきことも、えぞ聞こえさせぬや。
「いでや、をこがましきことも、えぞ聞こえさせぬや。いづ方につけても、あはれをば御覧じ過ぐすべくやはありけると、いよいよ恨めしさも添ひはべるかな。まづは、今宵などの御もてなしよ。北面だつ方に召し入れて、君達こそめざましくも思し召さめ、下仕へなどやうの人びととだに、うち語らはばや。またかかるやうはあらじかし。さまざまにめづらしき世なりかし」
と、うち傾きつつ、恨み続けたるもをかしければ、かくなむと聞こゆ。
「げに、人聞きを、うちつけなるやうにやと憚りはべるほどに、年ごろの埋れいたさをも、あきらめはべらぬは、いとなかなかなること多くなむ」
と、ただすくよかに聞こえなしたまふに、まばゆくて、よろづおしこめたり。
「妹背山深き道をば尋ねずて緒絶の橋に踏み迷ひけるよ」
「妹背山深き道をば尋ねずて
緒絶の橋に踏み迷ひける
よ」
と恨むるも、人やりならず。
「惑ひける道をば知らず妹背山
たどたどしくぞ誰も踏み見し」
「いづ方のゆゑとなむ、え思し分かざめりし。何ごとも、わりなきまで、おほかたの世を憚らせたまふめれば、え聞こえさせたまはぬになむ。おのづからかくのみもはべらじ」
と聞こゆるも、さることなれば、
「よし、長居しはべらむも、すさまじきほどなり。やうやう労積もりてこそは、かことをも」
とて、立ちたまふ。
月隈なくさし上がりて、空のけしきも艶なるに、いとあてやかにきよげなる容貌して、御直衣の姿、好ましくはなやかにて、いとをかし。
宰相中将のけはひありさまには、え並びたまはねど、これもをかしかめるは、「いかでかかる御仲らひなりけむ」と、若き人びとは、例の、さるまじきことをも取り立ててめであへり。
大将は、この中将は同じ右の次将なれば、常に呼び取りつつ、
大将は、この中将は同じ右の次将なれば、常に呼び取りつつ、ねむごろに語らひ、大臣にも申させたまひけり。人柄もいとよく、朝廷の御後見となるべかめる下形なるを、「などかはあらむ」と思しながら、「かの大臣のかくしたまへることを、いかがは聞こえ返すべからむ。さるやうあることにこそ」と、心得たまへる筋さへあれば、任せきこえたまへり。
この大将は、春宮の女御の御はらからにぞおはしける。
この大将は、春宮の女御の御はらからにぞおはしける。大臣たちをおきたてまつりて、さしつぎの御おぼえ、いとやむごとなき君なり。年三十二三のほどにものしたまふ。
北の方は、紫の上の御姉ぞかし。式部卿宮の御大君よ。年のほど三つ四つがこのかみは、ことなるかたはにもあらぬを、人柄やいかがおはしけむ、「嫗」とつけて心にも入れず、いかで背きなむと思へり。
その筋により、六条の大臣は、大将の御ことは、「似げなくいとほしからむ」と思したるなめり。色めかしくうち乱れたるところなきさまながら、いみじくぞ心を尽くしありきたまひける。
「かの大臣も、もて離れても思したらざなり。女は、宮仕へをもの憂げに思いたなり」と、うちうちのけしきも、さる詳しきたよりあれば、漏り聞きて、
「ただ大殿の御おもむけの異なるにこそはあなれ。まことの親の御心だに違はずは」
と、この弁の御許にも責ためたまふ。
九月にもなりぬ。初霜むすぼほれ、艶なる朝に、例の、とりどりなる御後見どもの、
九月にもなりぬ。初霜むすぼほれ、艶なる朝に、例の、とりどりなる御後見どもの、引きそばみつつ持て参る御文どもを、見たまふこともなくて、読みきこゆるばかりを聞きたまふ。大将殿のには、
「なほ頼み来しも、過ぎゆく空のけしきこそ、心尽くしに、
数ならば厭ひもせまし長月に
命をかくるほどぞはかなき」
「月たたば」とある定めを、いとよく聞きたまふなめり。
兵部卿宮は、
「いふかひなき世は、聞こえむ方なきを、
朝日さす光を見ても玉笹の
葉分けの霜を消たずもあらなむ
思しだに知らば、慰む方もありぬべくなむ」
とて、いとかしけたる下折れの霜も落とさず持て参れる御使さへぞ、うちあひたるや。
式部卿宮の左兵衛督は、殿の上の御はらからぞかし。
式部卿宮の左兵衛督は、殿の上の御はらからぞかし。親しく参りなどしたまふ君なれば、おのづからいとよくものの案内も聞きて、いみじくぞ思ひわびける。いと多く怨み続けて、
「忘れなむと思ふもものの悲しきを
いかさまにしていかさまにせむ」
紙の色、墨つき、しめたる匂ひも、さまざまなるを、人びとも皆、
「思し絶えぬべかめるこそ、さうざうしけれ」
など言ふ。
宮の御返りをぞ、いかが思すらむ、ただいささかにて、
宮の御返りをぞ、いかが思すらむ、ただいささかにて、
「心もて光に向かふ葵だに
朝おく霜をおのれやは消つ」
とほのかなるを、いとめづらしと見たまふに、みづからはあはれを知りぬべき御けしきにかけたまひつれば、つゆばかりなれど、いとうれしかりけり。
かやうに何となけれど、さまざまなる人々の、御わびごとも多かり。
女の御心ばへは、この君をなむ本にすべきと、大臣たち定めきこえたまひけりとや。
源氏物語の和歌について ― 折口信夫博士の講義から ―
・源氏物語の歌の特徴から
「時代の流行の歌は案外つまらなく、伝統を踏んだ古典味のある歌は時代を下っても活きている」(折口博士)
・「類型」をうまく扱うこと/即興の歌のちからについて
「歌は本来、瞬間の凝縮力に魅力がある。良い歌の模範を心のなかにたくさん持っていて、使うべき時に使い、新しい表現を生み出すのが短歌の力」(岡野先生)
「つまらない歌というものは、類型がうじゃじゃけている(だらっとしている)」(折口博士)
・しらべ、韻律は和歌の生命力
いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見む
このさびしさに君は耐ふるや 若山牧水
忘れなむと思ふもものの悲しきを
いかさまにしていかさまにせむ 源氏物語 「藤袴」より
心もて光に向かふ葵だに
朝おく霜をおのれやは消つ 源氏物語 「藤袴」より
・平安女流歌人の歌のおとろえが垣間見える源氏物語
・古典の良さを生きたかたちで取り込み、新境地をひらいた『新古今和歌集』
参考:各文献の成立・選定時期
『伊勢物語』 9世紀末
『古今和歌集』 905年
『源氏物語』 1008年頃
『千載和歌集』 1188年
『新古今和歌集』 1204年
コンテンツ名 | 源氏物語全講会 第120回 「藤袴」より その2 |
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収録日 | 2009年2月14日 |
講師 | 岡野弘彦(國學院大學名誉教授) |
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