第186回 「幻」より その4
源氏は折に触れて涙を流す。五節で世間が華やいでいても、自分は無関係に過ごしている、と思う。出家する決心をした源氏は形見の品を与え、手紙を破ったり焼いたりする。年越しの夜に走り回る若宮(匂宮)を見て、この可愛らしい姿をもう見られなくなるのかと思うと、忍びがたい気持ちになり、自分の人生も尽きてしまうのかと、歌を詠む。講義の中で、敗戦後の体験に基づく神道に対する考え方を述べている。
講師:岡野弘彦
七月七日も、例に変りたること多く、
七月七日も、例に変りたること多く、御遊びなどもしたまはで、つれづれに眺め暮らしたまひて、星逢ひ見る人もなし。まだ夜深う、一所起きたまひて、妻戸押し開けたまへるに、前栽の露いとしげく、渡殿の戸よりとほりて見わたさるれば、出でたまひて、
「七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見て別れの庭に露ぞおきそふ」
風の音さへただならずなりゆくころしも、
風の音さへただならずなりゆくころしも、御法事の営みにて、ついたちころは紛らはしげなり。「今まで経にける月日よ」と思すにも、あきれて明かし暮らしたまふ。
御正日には、上下の人びと皆斎して、かの曼陀羅など、今日ぞ供養ぜさせたまふ。例の宵の御行ひに、御手水など参らする中将の君の扇に、
「君恋ふる涙は際もなきものを今日をば何の果てといふらむ」
と書きつけたるを、取りて見たまひて、
「人恋ふるわが身も末になりゆけど残り多かる涙なりけり」
と、書き添へたまふ。
九月になりて、九日、
九月になりて、九日、綿おほひたる菊を御覧じて、
「もろともにおきゐし菊の白露も一人袂にかかる秋かな」
神無月には、おほかたも時雨がちなるころ、
神無月には、おほかたも時雨がちなるころ、いとど眺めたまひて、夕暮の空のけしきも、えもいはぬ心細さに、「降りしかど」と独りごちおはす。雲居を渡る雁の翼も、うらやましくまぼられたまふ。
「大空をかよふ幻夢にだに
「大空をかよふ幻夢にだに見えこぬ魂の行方たづねよ」
何ごとにつけても、紛れずのみ、月日に添へて思さる。
五節などいひて、
五節などいひて、世の中そこはかとなく今めかしげなるころ、大将殿の君たち、童殿上したまへる率て参りたまへり。同じほどにて、二人いとうつくしきさまなり。御叔父の頭中将、蔵人少将など、小忌にて、青摺の姿ども、きよげにめやすくて、皆うち続き、もてかしづきつつ、もろともに参りたまふ。思ふことなげなるさまどもを見たまふに、いにしへ、あやしかりし日蔭の折、さすがに思し出でらるべし。
「宮人は豊明といそぐ今日日影も知らで暮らしつるかな」
「今年をばかくて忍び過ぐしつれば、
「今年をばかくて忍び過ぐしつれば、今は」と、世を去りたまふべきほど近く思しまうくるに、あはれなること、尽きせず。やうやうさるべきことども、御心のうちに思し続けて、さぶらふ人びとにも、ほどほどにつけて、物賜ひなど、おどろおどろしく、今なむ限りとしなしたまはねど、近くさぶらふ人びとは、御本意遂げたまふべきけしきと見たてまつるままに、年の暮れゆくも心細く、悲しきこと限りなし。
落ちとまりてかたはなるべき人の御文ども、
落ちとまりてかたはなるべき人の御文ども、破れば惜し、と思されけるにや、すこしづつ残したまへりけるを、もののついでに御覧じつけて、破らせたまひなどするに、かの須磨のころほひ、所々よりたてまつれたまひけるもある中に、かの御手なるは、ことに結ひ合はせてぞありける。
みづからしおきたまひけることなれど、「久しうなりける世のこと」と思すに、ただ今のやうなる墨つきなど、「げに千年の形見にしつべかりけるを、見ずなりぬべきよ」と思せば、かひなくて、疎からぬ人びと、二、三人ばかり、御前にて破らせたまふ。
いと、かからぬほどのことにてだに、
いと、かからぬほどのことにてだに、過ぎにし人の跡と見るはあはれなるを、ましていとどかきくらし、それとも見分かれぬまで、降りおつる御涙の水茎に流れ添ふを、人もあまり心弱しと見たてまつるべきが、かたはらいたうはしたなければ、押しやりたまひて、
「死出の山越えにし人を慕ふとて跡を見つつもなほ惑ふかな」
さぶらふ人びとも、まほにはえ引き広げねど、それとほのぼの見ゆるに、心惑ひどもおろかならず。この世ながら遠からぬ御別れのほどを、いみじと思しけるままに書いたまへる言の葉、げにその折よりもせきあへぬ悲しさ、やらむかたなし。いとうたて、今ひときはの御心惑ひも、女々しく人悪るくなりぬべければ、よくも見たまはで、こまやかに書きたまへるかたはらに、
「かきつめて見るもかひなし藻塩草同じ雲居の煙とをなれ」
と書きつけて、皆焼かせたまふ。
「御仏名も、今年ばかりにこそは」
「御仏名も、今年ばかりにこそは」と思せばにや、常よりもことに、錫杖の声々などあはれに思さる。行く末ながきことを請ひ願ふも、仏の聞きたまはむこと、かたはらいたし。
雪いたう降りて、まめやかに積もりにけり。導師のまかづるを、御前に召して、盃など、常の作法よりもさし分かせたまひて、ことに禄など賜はす。年ごろ久しく参り、朝廷にも仕うまつりて、御覧じ馴れたる御導師の、頭はやうやう色変はりてさぶらふも、あはれに思さる。例の、宮たち、上達部など、あまた参りたまへり。
梅の花の、わづかにけしきばみはじめて雪にもてはやされたるほど、をかしきを、御遊びなどもありぬべけれど、なほ今年までは、ものの音もむせびぬべき心地したまへば、時によりたるもの、うち誦じなどばかりぞせさせたまふ。
・神道は祖先祭祀の習俗
・敗戦後の体験
伊勢神宮にて
志摩熊野の村々で
・折口信夫からの講師推薦状
・柳田国男が伊勢の神主に言ったこと
まことや、導師の盃のついでに、
まことや、導師の盃のついでに、
「春までの命も知らず雪のうちに色づく梅を今日かざしてむ」
御返し、
「千世の春見るべき花と祈りおきてわが身ぞ雪とともにふりぬる」
人びと多く詠みおきたれど、もらしつ。
その日ぞ、出でたまへる。
その日ぞ、出でたまへる。御容貌、昔の御光にもまた多く添ひて、ありがたくめでたく見えたまふを、この古りぬる齢の僧は、あいなう涙もとどめざりけり。
年暮れぬと思すも、
年暮れぬと思すも、心細きに、若宮の、
「儺やらはむに、音高かるべきこと、何わざをせさせむ」
と、走りありきたまふも、「をかしき御ありさまを見ざらむこと」と、よろづに忍びがたし。
「もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに年もわが世も今日や尽きぬる」
朔日のほどのこと、「常よりことなるべく」と、おきてさせたまふ。親王たち、大臣の御引出物、品々の禄どもなど、何となう思しまうけて、とぞ。
・折口信夫60年祭
http://pr.kokugakuin.ac.jp/event_extramural/2013/09/03/172602/
コンテンツ名 | 源氏物語全講会 第186回 「幻」より その4 |
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収録日 | 2013年9月14日 |
講師 | 岡野弘彦(國學院大學名誉教授) |
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