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戦前期における森永製菓の東南アジアの事業展開

戦前期における森永製菓の東南アジアの事業展開

森永製菓の創業者、森永太一郎の海外展開に関する考え方や、東南アジアに展開した戦前期の事業内容を、同業他社の例も紹介しながら、講演しています。

講師:
野秋誠治 一般財団法人森永エンゼル財団理事・主席研究員

 

目次

 

戦前期における森永製菓の東南アジアの事業展開

1.創業者の海外展開に対する考え方

森永太一郎は、海外に発展することは、天職を全うすることであり、国家に尽くすことであると考えていました。
「吾等が天職に対するの途は唯一つである。それは海外に向かって発展を期することである。我社の今後に於ける進路は海外発展の四大字を目標として躍出する方針であって、七千万同胞の消費は取りも直さず吾等の後援となって下さる意味である。」(森永太一郎,森永月報大正13年1月15日号掲載、一部略)

・明治製菓の創業者も海外に眼を向けていました。

 

2.海外展開のための条件が整う

・輸入砂糖関税の引上げと国内砂糖消費税の増税が実施された結果、糖価は高騰し、日本の菓子類の海外競争力は著しく弱められてしまいました。翌38(1905)年1月に森永に入店した松崎支配人の重要課題のひとつは「輸出菓子原料砂糖戻税法」の制定促進運動が展開され、菓子業界懸案の「輸出菓子原料戻税法」は、明治42(1909)年4月1日に公布されました。しかし、これだけでは十分ではなかったので、さらに運動を展開し、1912年に「仮置場法」が公布されました。

 

3.海外展開のための調査とその拡がり

「思ひ出づれば、明治45年の2月上旬、菓子の販路を開拓したいと思つて東大門の市場で戸板の上に新聞紙を拡げ乾燥物のバナナドロツプ其他の物を陳列して約十円を商つた事がある。之は最初の開拓者が如何なる苦心と、努力を尽くしたかを、青年社員諸氏の為に誌して置く。」(森永太一郎『南船北馬』より、一部略)

 

4.営業拠点の設置

1924年から営業拠点は具体化していきました。4月にスラバヤ(インドネシア)に南洋出張所、8月に香港出張所を設置、12月には大連に森永製品満州販売会社が創立しました。

 

5.生産拠点の設置

生産拠点は、1934年に満州に建設した大連工場が最初で、その後、京城工場(1940年)、新京工場(1941年)、天津工場、台南工場(1941年)、屏東工場(1944年)が設置されていきました。

 

6.アジア太平洋開始後の展開

森永製菓は1942年秋から、ジャワ(インドネシア)、シンガポール、ビルマ(ミャンマー)、タイ、香港、フィリピンなどに合わせて約90名の社員を派遣しました。

 

7.進出先での宣伝広告

森永製菓は、電車広告、映画宣伝隊等、様々な宣伝活動を東南アジアでも展開しました。

 

8.強力な協力者

森永製菓に関係した人物の中には、満鉄の初代監事(1905-1915)だった岩下清周、満鉄の社長・総裁を歴任した山本条太郎、満鉄で秘書だった上田恭輔などがいました。
岩下は森永製菓の株式会社化に尽力し、山本は森永製菓の取締役だった時があり、上田は太一郎の在米時代からの友人であった。

コンテンツ名 戦前期における森永製菓の東南アジアの事業展開
収録日 2018年4月20日
講師 野秋誠治
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