源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第42回 「若紫」より その9

尼上は亡くなる。源氏の対応に、人間としての美質の描かれようを、武士としての頼朝の歌、また、(『平家物語』など)武士の合戦を描く物語を引き合いに解釈する。源氏は若紫の御帳に入ってしまい、女房達が困惑する。

忌(いみ)など過ぎて、京の殿になむ、と聞き給へば、

 忌(いみ)など過ぎて、京の殿になむ、と聞き給へば、程経て、自(みずか)らのどかなる夜おはしたり。いとすごげに荒れたる所の、人少ななるに、いかに幼き人、恐しからむ、と見ゆ。例の所に入れ奉りて、少納言、御有様など、うち泣きつゝ聞え続くるに、あいなう御袖もたゞならず。

(少納言)「宮に渡し奉らむと侍るめるを、故姫君の、

 (少納言)「宮に渡し奉らむと侍るめるを、故姫君の、いとなさけなく憂きものに思ひ聞え給へりしに、いとむげに児(ちご)ならぬ齢(よはひ)の、まだはかばかしう人のおもむけをも見知り給はず、中空(なかぞら)なる御程にて、あまたものし給ふなる中の、あなづらはしき人にてや交(まじ)り給はむなど、過ぎ給ひぬるも、世とともに思し嘆きつるも、しるき事多く侍るに、かくかたじけなきなげの御言の葉は、のちの御心もたどり聞えさせず、いと嬉しう思ひ給へられぬべき折節に侍りながら、少しもなずらひなるさまにもものし給はず、御年よりも若びてならひ給へれば、いとかたはらいたく侍り」と聞ゆ。(源氏)「何か。かう繰り返し聞え知らする心の程を、つゝみ給ふらむ。そのいふかひなき御有様の、あはれにゆかしう覚え給ふも契りことになむ、心ながら思ひ知られける。なほ人伝(ひとづて)ならで、聞え知らせばや。

あしわかの浦にみるめは難くともこは立ちながらかへる波かは

 あしわかの浦にみるめは難くともこは立ちながらかへる波かは 

めざましからむ」と宣へば、(少納言)「げにこそいとかしこけれ」とて、

  「寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかむ程ぞうきたる

わりなきこと」と聞ゆる様のなれたるに、少し罪許され給ふ。(源氏)「など越えざらむ」と、うち誦(ずん)じ給へるを、身にしみて若き人々思へり。

君は、上を恋ひ聞え給ひて、泣き臥し給へるに、

 君は、上を恋ひ聞え給ひて、泣き臥し給へるに、御遊びがたきどもの、(女童)「直衣(なほし)着たる人のおはする、宮のおはしますなめり」と聞ゆれば、起き出で給ひて、(若君)「少納言よ。直衣着たりつらむはいづら。宮のおはするか」とて、寄りおはしたる御声、いとらうたし。(源氏)「宮にはあらねど、また思(おぼ)し放つべうもあらず。こち」と宣ふを、はづかしかりし人と、さすがに聞きなして、あしう言ひてけり、とおぼして、乳母(めのと)にさし寄りて、(若君)「いざかし、ねぶたきに」と宣へば、(源氏)「今更に、など忍び給ふらむ。この膝の上に大殿籠れよ。今少し寄り給へ」と宣へば、乳母の「さればこそ、かう世づかぬ御程にてなむ」とて、押し寄せ奉りたれば、何心もなく居給へるに、手をさし入れてさぐり給へれば、なよゝかなる御衣(ぞ)に、髪はつやつやとかゝりて、末のふさやかに探りつけられたる程、いとうつくしう思ひやらる。

手をとらへ給へれば、うたて例ならぬ人の、

 手をとらへ給へれば、うたて例ならぬ人の、かく近づき給へるは恐ろしうて、(若君)「寝なむと言ふものを」とて強ひて引き入り給ふにつきて、すべり入りて、(源氏)「今はまろぞ思ふべき人。な疎み給ひそ」と宣ふ。乳母、「いで、あなうたてや。ゆゝしうも侍るかな。聞えさせ知らせ給ふとも、さらに何のしるしも侍らじものを」とて、苦しげに思ひたれば、(源氏)「さりとも、かゝる御程を、いかゞはあらむ。なほ、たゞ世に知らぬ心ざしの程を、見果て給へ」と宣ふ。

あられ降り荒れて、すごき夜の様なり。

 あられ降り荒れて、すごき夜の様なり。(源氏)「いかで、かう人少なに心細うて、過ぐし給ふらむ」と、うち泣い給ひて、いと見捨て難き程なれば、(源氏)「御格子まゐりね。もの恐ろしき夜の様なめるを、宿直(とのゐ)人にて侍らむ。人々近う侍はれよかし」とて、いと慣れ顔に、御帳の内に入り給へば、あやしう思ひのほかにも、とあきれて、誰(たれ)も誰も居たり。乳母は、うしろめたなうわりなしと思へど、あらましう聞え騒ぐべきならねば、うち嘆きつゝ居たり。

若君は、いと恐ろしう、いかならむとわななかれて、

 若君は、いと恐ろしう、いかならむとわななかれて、いとうつくしき御はだつきも、そゞろ寒げに思したるを、らうたく覚えて、ひとへばかりをおしくゝみてわが御こゝちも、かつはうたておぼえ給へど、あはれにうち語らひ給ひて、(源氏)「いざ給へよ。をかしき絵など多く、雛(ひゝな)遊びなどする所に」と、心につくべき事を宣ふけはひの、いとなつかしきを、幼なきこゝちにも、いといたうもおぢず、さすがにむつかしう、寝も入らずおぼえて、みじろぎ臥し給へり。

夜(よ)ひと夜(よ)風吹き荒るゝに、(女房)「げに、かうおはせざらましかば、

 夜(よ)ひと夜(よ)風吹き荒るゝに、(女房)「げに、かうおはせざらましかば、いかに心細からまし。同じくは、よろしき程におはしまさましかば」と、さゝめき合へり。乳母は、うしろめたさに、いと近うさぶらふ。風少し吹き止(や)みたるに、夜深う出で給ふも、事あり顔なりや。(源氏)「いとあはれに見奉る御有様を、今はまして片時の間もおぼつかなかるべし。明け暮れながめ侍る所に渡し奉らむ。かくてのみはいかゞ。ものおぢし給はざりけり」と宣へば、(女房)「宮も御迎へになど聞え給ふめれど、此の御四十九日過ぐしてや、など思ひ給ふる」と聞ゆれば、(源氏)「たのもしき筋ながらも、よそよそにてならひ給へるは、同じうこそ疎うおぼえ給はめ。今より見奉れど、浅からぬ心ざしは勝りぬべくなむ」とて、かい撫でつゝ、返り見がちにて出で給ひぬ。

いみじう霧(き)り渡れる空もたゞならぬに、霜(しも)はいと白うおきて、

 いみじう霧(き)り渡れる空もたゞならぬに、霜(しも)はいと白うおきて、まことの懸想もをかしかりぬべきに、さうざうしう思ひおはす。いと忍びて通ひ給ふ所の、途(みち)なりけるを思し出でて、門(かど)うち叩(たゝ)かせ給へど、聞きつくる人なし。かひなくて、御供に声ある人して、うたはせ給ふ。

  「朝ぼらけ霧たつ空のまよひにも行き過ぎ難き妹(いも)が門(かど)かな」

と、二返(ふたかへり)ばかりうたひたるに、よしある下仕(しもづかへ)をいだして、

  「立ち止まり霧の籬(まがき)の過ぎうくは草のとざしにさはりしもせじ」

と云ひかけて入りぬ。また人も出で来ねば、帰るもなさけなけれど、明け行く空もはしたなくて殿へおはしぬ。

をかしかりつる人の名残(なごり)恋ひしく、ひとりゑみしつゝ臥(ふ)し給へり。

 をかしかりつる人の名残(なごり)恋ひしく、ひとりゑみしつゝ臥(ふ)し給へり。日高う大殿籠(おほとのごもり)起きて、文やり給ふに書くべき言葉も例ならねば、筆うちおきつゝすさび居給へり。をかしき絵などをやり給ふ。

コンテンツ名 源氏物語全講会 第42回 「若紫」より その9
収録日 2003年10月30日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

平成15年秋期講座

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