第105回 「胡蝶」より その1
「胡蝶」の巻の前半には春爛漫の六条院の、この上もなく華麗な場面があると解説して、本文に。六条院の春の町で、源氏は、唐風の装いをした舟を造らせ、船上で音楽を奏でさせる。夜になると、庭に篝火をともして管弦が催された。兵部卿宮が玉葛への思いを詠む。六条院へ下がってきている秋好中宮が、春の読経を勤める。途中、自著『恋の王朝絵巻・伊勢物語』について、触れる。
講師:岡野弘彦
- 目次
-
- 胡蝶の巻について
- 弥生の二十日あまりのころほひ、春の御前のありさま、
- 中宮、このころ里におはします。
- 龍頭鷁首を、唐のよそひにことことしうしつらひて、
- 「風吹けば波の花さへ色見えてこや名に立てる山吹の崎」
- 暮れかかるほどに、「皇じやう」といふ楽、いとおもしろく聞こゆるに、
- 夜に入りぬれば、いと飽かぬ心地して、御前の庭に篝火ともして、
- 夜も明けぬ。朝ぼらけの鳥のさへづりを、中宮はもの隔てて、
- 兵部卿宮はた、年ごろおはしける北の方も亡せたまひて、
- 自著新刊 『恋の王朝絵巻・伊勢物語』
- 今日は、中宮の御読経の初めなりけり。
- 春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせたまふ。
- 宮の亮をはじめて、さるべき上人ども、禄取り続きて、童べに賜ぶ。
- まことや、かの見物の女房たち、宮のには、
- 西の対の御方は、かの踏歌の折の御対面の後は、
- 内の大殿の君たちは、この君に引かれて、よろづにけしきばみ、
胡蝶の巻について
・胡蝶の巻について
弥生の二十日あまりのころほひ、春の御前のありさま、
胡蝶
弥生の二十日あまりのころほひ、春の御前のありさま、常よりことに尽くして匂ふ花の色、鳥の声、ほかの里には、まだ古りぬにやと、めづらしう見え聞こゆ。山の木立、中島のわたり、色まさる苔のけしきなど、若き人びとのはつかに心もとなく思ふべかめるに、唐めいたる舟造らせたまひける、急ぎ装束かせたまひて、下ろし始めさせたまふ日は、雅楽寮の人召して、舟の楽せらる。親王たち上達部など、あまた参りたまへり。
中宮、このころ里におはします。
中宮、このころ里におはします。かの「春待つ園は」と励ましきこえたまへりし御返りもこのころやと思し、大臣の君も、いかでこの花の折、御覧ぜさせむと思しのたまへど、ついでなくて軽らかにはひわたり、花をももてあそびたまふべきならねば、若き女房たちの、ものめでしぬべきを舟に乗せたまうて、南の池の、こなたに通しかよはしなさせたまへるを、小さき山を隔ての関に見せたれど、その山の崎より漕ぎまひて、東の釣殿に、こなたの若き人びと集めさせたまふ。
龍頭鷁首を、唐のよそひにことことしうしつらひて、
龍頭鷁首を、唐のよそひにことことしうしつらひて、楫取の棹さす童べ、皆みづら結ひて、唐土だたせて、さる大きなる池の中にさし出でたれば、まことの知らぬ国に来たらむ心地して、あはれにおもしろく、見ならはぬ女房などは思ふ。
中島の入江の岩蔭にさし寄せて見れば、はかなき石のたたずまひも、ただ絵に描いたらむやうなり。こなたかなた霞みあひたる梢ども、錦を引きわたせるに、御前の方ははるばると見やられて、色をましたる柳、枝を垂れたる、花もえもいはぬ匂ひを散らしたり。ほかには盛り過ぎたる桜も、今盛りにほほ笑み、廊をめぐれる藤の色も、こまやかに開けゆきにけり。まして池の水に影を写したる山吹、岸よりこぼれていみじき盛りなり。水鳥どもの、つがひを離れず遊びつつ、細き枝どもを食ひて飛びちがふ、鴛鴦の波の綾に紋を交じへたるなど、ものの絵やうにも描き取らまほしき、まことに斧の柄も朽たいつべう思ひつつ、日を暮らす。
「風吹けば波の花さへ色見えてこや名に立てる山吹の崎」
「風吹けば波の花さへ色見えて
こや名に立てる山吹の崎」
「春の池や井手の川瀬にかよふらむ
岸の山吹そこも匂へり」
「亀の上の山も尋ねじ舟のうちに
老いせぬ名をばここに残さむ」
「春の日のうららにさしてゆく舟は
棹のしづくも花ぞ散りける」
などやうの、はかなごとどもを、心々に言ひ交はしつつ、行く方も帰らむ里も忘れぬべう、若き人びとの心を移すに、ことわりなる水の面になむ。
暮れかかるほどに、「皇じやう」といふ楽、いとおもしろく聞こゆるに、
暮れかかるほどに、「皇じやう」といふ楽、いとおもしろく聞こゆるに、心にもあらず、釣殿にさし寄せられて下りぬ。ここのしつらひ、いとこと削ぎたるさまに、なまめかしきに、御方々の若き人どもの、われ劣らじと尽くしたる装束、容貌、花をこき交ぜたる錦に劣らず見えわたる。世に目馴れずめづらかなる楽ども仕うまつる。舞人など、心ことに選ばせたまひて。
夜に入りぬれば、いと飽かぬ心地して、御前の庭に篝火ともして、
夜に入りぬれば、いと飽かぬ心地して、御前の庭に篝火ともして、御階のもとの苔の上に、楽人召して、上達部、親王たちも、皆おのおの弾きもの、吹きものとりどりにしたまふ。
物の師ども、ことにすぐれたる限り、双調吹きて、上に待ちとる御琴どもの調べ、いとはなやかにかき立てて、「安名尊」遊びたまふほど、「生けるかひあり」と、何のあやめも知らぬ賤の男も、御門のわたり隙なき馬、車の立処に混じりて、笑みさかえ聞きにけり。
空の色、物の音も、春の調べ、響きは、いとことにまさりけるけぢめを、人びと思し分くらむかし。夜もすがら遊び明かしたまふ。返り声に「喜春楽」立ちそひて、兵部卿宮、「青柳」折り返しおもしろく歌ひたまふ。主人の大臣も言加へたまふ。
夜も明けぬ。朝ぼらけの鳥のさへづりを、中宮はもの隔てて、
夜も明けぬ。朝ぼらけの鳥のさへづりを、中宮はもの隔てて、ねたう聞こし召しけり。いつも春の光を籠めたまへる大殿なれど、心をつくるよすがのまたなきを、飽かぬことに思す人びともありけるに、西の対の姫君、こともなき御ありさま、大臣の君も、わざと思しあがめきこえたまふ御けしきなど、皆世に聞こえ出でて、思ししもしるく、心なびかしたまふ人多かるべし。
わが身さばかりと思ひ上がりたまふ際の人こそ、便りにつけつつ、けしきばみ、言出で聞こえたまふもありけれ、えしもうち出でぬ中の思ひに燃えぬべき若君達などもあるべし。そのうちに、ことの心を知らで、内の大殿の中将などは、好きぬべかめり。
兵部卿宮はた、年ごろおはしける北の方も亡せたまひて、
兵部卿宮はた、年ごろおはしける北の方も亡せたまひて、この三年ばかり、独り住みにてわびたまへば、うけばりて今はけしきばみたまふ。
今朝も、いといたうそら乱れして、藤の花をかざして、なよびさうどきたまへる御さま、いとをかし。大臣も、思ししさまかなふと、下には思せど、せめて知らず顔をつくりたまふ。
御土器のついでに、いみじうもて悩みたまうて、
「思ふ心はべらずは、まかり逃げはべりなまし。いと堪へがたしや」
とすまひたまふ。
「紫のゆゑに心をしめたれば
淵に身投げむ名やは惜しけき」
とて、大臣の君に、同じかざしを参りたまふ。いといたうほほ笑みたまひて、
「淵に身を投げつべしやとこの春は
花のあたりを立ち去らで見よ」
と切にとどめたまへば、え立ちあかれたまはで、今朝の御遊び、ましていとおもしろし。
自著新刊 『恋の王朝絵巻・伊勢物語』
・『恋の王朝絵巻・伊勢物語』 (淡交社)刊行
・古代から連綿と受け継がれてきたいろごのみの物語
・伊勢物語の中の女のいろごのみ
・わが家郷と伊勢物語
・「ことだま」による感染教育
今日は、中宮の御読経の初めなりけり。
今日は、中宮の御読経の初めなりけり。やがてまかでたまはで、休み所とりつつ、日の御よそひに替へたまふ人びとも多かり。障りあるは、まかでなどもしたまふ。
午の時ばかりに、皆あなたに参りたまふ。大臣の君をはじめたてまつりて、皆着きわたりたまふ。殿上人なども、残るなく参る。多くは、大臣の御勢ひにもてなされたまひて、やむごとなく、いつくしき御ありさまなり。
春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせたまふ。
春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせたまふ。鳥蝶に装束き分けたる童べ八人、容貌などことに整へさせたまひて、鳥には、銀の花瓶に桜をさし、蝶は、金の瓶に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になき匂ひを尽くさせたまへり。
南の御前の山際より漕ぎ出でて、御前に出づるほど、風吹きて、瓶の桜すこしうち散りまがふ。いとうららかに晴れて、霞の間より立ち出でたるは、いとあはれになまめきて見ゆ。わざと平張なども移されず、御前に渡れる廊を、楽屋のさまにして、仮に胡床どもを召したり。
童べども、御階のもとに寄りて、花どもたてまつる。行香の人びと取り次ぎて、閼伽に加へさせたまふ。
御消息、殿の中将の君して聞こえたまへり。
「花園の胡蝶をさへや下草に
秋待つ虫はうとく見るらむ」
宮、「かの紅葉の御返りなりけり」と、ほほ笑みて御覧ず。昨日の女房たちも、
「げに、春の色は、え落とさせたまふまじかりけり」
と、花におれつつ聞こえあへり。鴬のうららかなる音に、「鳥の楽」はなやかに聞きわたされて、池の水鳥もそこはかとなくさへづりわたるに、「急」になり果つるほど、飽かずおもしろし。「蝶」は、ましてはかなきさまに飛び立ちて、山吹の籬のもとに、咲きこぼれたる花の蔭に舞ひ出づる。
宮の亮をはじめて、さるべき上人ども、禄取り続きて、童べに賜ぶ。
宮の亮をはじめて、さるべき上人ども、禄取り続きて、童べに賜ぶ。鳥には桜の細長、蝶には山吹襲賜はる。かねてしも取りあへたるやうなり。物の師どもは、白き一襲、腰差など、次ぎ次ぎに賜ふ。中将の君には、藤の細長添へて、女の装束かづけたまふ。御返り、
「昨日は音に泣きぬべくこそは。
胡蝶にも誘はれなまし心ありて
八重山吹を隔てざりせば」
とぞありける。すぐれたる御労どもに、かやうのことは堪へぬにやありけむ、思ふやうにこそ見えぬ御口つきどもなめれ。
まことや、かの見物の女房たち、宮のには、
まことや、かの見物の女房たち、宮のには、皆けしきある贈り物どもせさせたまうけり。さやうのこと、くはしければむつかし。
明け暮れにつけても、かやうのはかなき御遊びしげく、心をやりて過ぐしたまへば、さぶらふ人も、おのづからもの思ひなき心地してなむ、こなたかなたにも聞こえ交はしたまふ。
西の対の御方は、かの踏歌の折の御対面の後は、
西の対の御方は、かの踏歌の折の御対面の後は、こなたにも聞こえ交はしたまふ。深き御心もちゐや、浅くもいかにもあらむ、けしきいと労あり、なつかしき心ばへと見えて、人の心隔つべくもものしたまはぬ人ざまなれば、いづ方にも皆心寄せきこえたまへり。
聞こえたまふ人いとあまたものしたまふ。されど、大臣、おぼろけに思し定むべくもあらず、わが御心にも、すくよかに親がり果つまじき御心や添ふらむ、「父大臣にも知らせやしてまし」など、思し寄る折々もあり。
殿の中将は、すこし気近く、御簾のもとなどにも寄りて、御応へみづからなどするも、女はつつましう思せど、さるべきほどと人びとも知りきこえたれば、中将はすくすくしくて思ひも寄らず。
内の大殿の君たちは、この君に引かれて、よろづにけしきばみ、
内の大殿の君たちは、この君に引かれて、よろづにけしきばみ、わびありくを、その方のあはれにはあらで、下に心苦しう、「まことの親にさも知られたてまつりにしがな」と、人知れぬ心にかけたまへれど、さやうにも漏らしきこえたまはず、ひとへにうちとけ頼みきこえたまふ心むけなど、らうたげに若やかなり。似るとはなけれど、なほ母君のけはひにいとよくおぼえて、これはかどめいたるところぞ添ひたる。
コンテンツ名 | 源氏物語全講会 第105回 「胡蝶」より その1 |
---|---|
収録日 | 2008年3月1日 |
講師 | 岡野弘彦(國學院大學名誉教授) |
平成19年秋期講座 |
さまざまな分野に精通し、経験、知識豊富な講師の方々をご紹介します。