源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第4回 「桐壺」より その4

弔問に訪れたゆげひの女房と更衣の母君の会話の場面。戻った女房に帝は更衣の里の様子を細々と聞く。

いのち長さの、いとつらう思う給へ知らるゝに

 (母君)「いのち長さの、いとつらう思う給へ知らるゝに、松の思はむ事だに恥づかしう思ひ給へ侍れば、もゝしきに行きかひ侍らむ事は、ましていと憚り多くなむ。かしこき仰せ言をたびたびうけたまはりながら、みづからはえなむ思う給へ立つまじき。若宮はいかに思ほし知るにか、参り給はむ事をのみなむ、おぼし急ぐめれば、ことわりに悲しう見奉り侍る、など、うちうちに思う給ふるさまを奏し給へ。ゆゝしき身に侍れば、かくておはしますもいまいましうかたじけなくなむ」と宣ふ。

宮は大殿籠りにけり

 (命婦)「宮は大殿籠りにけり。見たてまつりて、くはしう御ありさまも奏し侍らまほしきを、待ちおはしますらむに、よふけ侍りぬべし」とて急ぐ。
 (母君)「くれまどふ心のやみも、堪へがたきかたはしをだに、はるくばかりに聞えまほしう侍るを、わたくしにも心のどかにまかで給へ。としごろ、うれしくおもだゝしきついでにて立ち寄り給ひしものを、かゝる御せうそこにて見たてまつる、かへすがへすつれなき命にも侍るかな。生まれし時より思ふ心ありし人にて、故大納言、いまはとなるまで、『たゞこの人の宮づかへの本意必ずとげさせ奉れ。われなくなりぬとて、くちをしう思ひくづほるな』と、かへすがへすいさめ置かれ侍りしかば、はかばかしううしろみ思ふ人もなきまじらひは、なかなかなるべき事と思ひ給へながら、ただかの遺言をたがへじとばかりに、いだし立て侍りしを、身に余るまでの御こころざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥ぢを隠しつゝ、まじらひ給ふめりつるを、人のそねみ深く積もり、安からぬこと多くなりそひ侍りつるに、よこざまなるやうにて、つひにかくなり侍りぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御こころざしを、思ふ給へられ侍る。これもわりなき心のやみになむ」と言ひもやらず、むせかへり給ふほどに、よもふけぬ。

うへもしかなむ。(主上)『わが御心ながら、あながちに人目おどろくばかりおぼされしも、

 (命婦)「うへもしかなむ。(主上)『わが御心ながら、あながちに人目おどろくばかりおぼされしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになむ。よに、いさゝかも、人の心をまげたる事はあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひしはてはては、かううち棄てられて、心をさめむかたなきに、いとゞ人わろうかたくなになりはつるも、さきの世ゆかしうなむ』と、うちかへしつゝ、御しほたれがちにのみおはします」と、語りて尽きせず、泣く泣く、(命婦)「夜いたうふけぬれば、こよひ過ぐさず御返り奏せむ」と、急ぎ参る。

月は入りがたの空あきよう澄みわたれるに

 月は入りがたの空あきよう澄みわたれるに、風いとすずしくなりて、草むらの虫の声々もよほしがほなるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。

 (命婦)「鈴むしの声の限りを尽くしても長きよあかずふる涙かな」

えも乗りやらず。

 (母君)「いとどしく虫のねしげきあさぢふに露おきそふる雲のうへ人、かごとも聞えつべくなむ」
と言わせ給ふ。

をかしき御おくりものなどあるべき折りにもあらねば

 をかしき御おくりものなどあるべき折りにもあらねば、ただかの御かたみにとて、かかる用もやと残し給へりける御さうぞくひとくだり、御ぐしあげの調度めくもの、添へ給ふ。
 若き人々、悲しき事はさらにも言はず、うちわたりを朝夕に慣らひていとさうざうしく、うへの御ありさまなど思ひ出で聞ゆれば、とく参り給はむ事をそゝのかし聞ゆれど、かくいまいましき身の添ひ奉らむもいと人聞き憂かるべし、また、見奉らでしばしもあらむはいとうしろめたう思ひ聞え給ひて、すがすがともえ参らせ奉り給はぬなりけり。

命婦は、まだ大殿籠らせ給はざりけると

 命婦は、まだ大殿籠らせ給はざりけると、あはれに見奉る。おまへのつぼ前栽の、いとおもしろき盛りなるを、御覧ずるやうにて、しのびやかに、心にくき限りの女房四五人さぶらはせ給ひて、御物語りせさせ給ふなりけり。このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵、亭子院のかかせ給ひて、伊勢貫之によませ給へる、やまと言の葉をも、もろこしのうたをも、ただそのすぢをぞ、まくらごとにせさせ給ふ。
 いとこまやかにありさま問はせ給ふ。あはれなりつる事、しのびやかに奏す。御返り御覧ずれば、(母君)「いともかしこきは、おきどころも侍らず。かかる仰せ言につけても、かきくらす乱りごこちになむ。

   荒き風ふせぎしかげの枯れしよりこはぎがうへぞしづこころなき」

などやうにみだりがはしきを、心をさめざりけるほどと御覧じゆるすべし。

いとかうしも見えじとおぼししづむれど

 いとかうしも見えじとおぼししづむれど、さらにえ忍びあへさせ給はず、御覧じはじめし年月の事さへ、かきあつめ、よろづにおぼし続けられて、時のまもおぼつかなかりしを、かくても月日はへにけりと、あさましうおぼしめさる。

  (主上)「故大納言の遺言あやまたず、宮づかへのほい深くものしたりし喜びは、かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ。いふかひなしや」と、うち宣はせて、いとあはれにおぼしやる。(主上)「かくても、おのづから、若宮などおひいで給はば、さるべきついでもありなむ。命ながくとこそ思ひ念ぜめ」など宣はす。

 かの贈り物御覧ぜさす。なき人のすみか尋ねいでたりけむしるしの釵ならましかば、と思ほすもいとかひなし。

 (主上)「尋ねゆくまぼろしもがなつてにてもたまのありかをそこと知るべく」

 絵にかける楊貴妃のかたちは、いみじき絵師といへども、筆かぎりありければ、いとにほひすくなし。太液の芙蓉未央の柳も、げに、かよひたりしかたちを、からめいたるよそひは、うるはしうこそありけめ、なつかしうらうたげなりしをおぼしいづるに、はなとりの色にも音にも、よそふべきかたぞなき、あさゆふのことぐさに、はねを並べ、枝をかはさむと契らせ給ひしに、かなはざりけるいのちのほどぞ、尽きせず、うらめしき。

コンテンツ名 源氏物語全講会 第4回 「桐壺」より その4
収録日 2001年5月31日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

講座名:平成13年春期講座

収録講義音声著作権者:國學院大學院友会

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