第16回 「帚木」より その7
斎藤史逝去の話を皮切りに、折口信夫が昭和11年に書いた評論や歌に言及。講義は頭の中将の、はかない女性(後の夕顔)とのやりとり、続き、藤式部の丞が語る場面で、物語と歌、和泉式部の歌のことなどにもふれる。
講師:岡野弘彦
はじめに
歌人・斎藤史さんをしのぶ
「斎藤史という歌人が亡くなられたことで一番感じるのは、あの長い昭和六十年の名残の思いがここで一つふっつりと消えたという感じだということを言ったわけですが、それは斎藤史という歌人はほかの普通の歌人とは違った経歴というか、運命をしょった歌人でありまして、(中略)同級生なんかに軍人になった人が非常に多いわけです。そういう幼いころから友達であった、そして青年に育っても家と家とが行き来したりして親しい仲にあって、やがて青年将校になっている人たちの中から、昭和11年の二・二六事件に加わった人が何人かいる…」
「そういう中で、斎藤史さんというのは、自分の父がそんなふうに一切の名誉を剥奪されるわけです。それから、幼いときから仲のよかった青年将校の何人かがむざむざと額の真ん中を射抜かれて、そして土にむくろを横たえていくわけです。そのことを敢然として短歌に詠むわけです。「濁流だ濁流だ」という言葉でそのことを歌うわけです。それから後も、生涯、『全歌集』を読んでいますと、折りにつけ時につけて、何か地球の深いところからマグマが盛り上がってきて噴出するように、その心の痛みを斎藤史さんは歌に詠んでいます。折りにつけ時につけて、それは表現を変え、歌い方を変えて、しかし読んでいくと、ああ、やっぱりあのことがこの歌の底にあるんだという感じの作品がずっと続いて、どの時代にでも出てきます。」
折口信夫と2・26事件
「あの青年将校たちが事を起こした直後に、朝日新聞に折口は何首かの歌を発表します。それはやはり青年将校たちの暴挙を非難した歌です。
おほきみの伴(とも)の建男(たけお)と頼みしが、きのふもけふも人を殺せり (折口)
それは昭和天皇が『朕の心の臣を殺害した者は賊である』と言われたのと同じような怒りですね。しかし、その青年将校たちが、事を企てた肝心の純粋な志、無垢の心の赴くところを一言も後の人々に公に残すこともできないで、まさしく暗闇の中に抹殺せられてしまった。そうすると、あの若者たちの純粋な志が残らないのが何ともあはれでしようがなかったと思うんです。」
この二つの事を思う給へ合はするに、
この二つのことを思うたまへあはするに、若き時の心にだに、なほさやうにもて出でたることは、いとあやしく頼もしげなくおぼえはべりき。今より後は、ましてさのみなむ思ひたまへらるべき。御心のままに、折らば落ちぬべき萩の露、拾はば消えなむと見る玉笹の上の霰などの、艶にあえかなる好き好きしさのみこそ、をかしく思さるらめ、今さりとも、七年あまりがほどに思し知りはべなむ。なにがしがいやしき諌めにて、好きたわめらむ女に心おかせたまへ。過ちして、見む人のかたくななる名をも立てつべきものなり」
と戒む。中将、例のうなづく。君すこしかた笑みて、さることとは思すべかめり。
「いづ方につけても、人悪ろくはしたなかりける身物語かな」とて、うち笑ひおはさうず。
中将、「なにがしは、しれものの物語をせむ」とて、
中将、
「なにがしは、痴者の物語をせむ」とて、「いと忍びて見そめたりし人の、さても見つべかりしけはひなりしかば、ながらふべきものとしも思ひたまへざりしかど、馴れゆくままに、あはれとおぼえしかば、絶え絶え忘れぬものに思ひたまへしを、さばかりになれば、うち頼めるけしきも見えき。頼むにつけては、恨めしと思ふこともあらむと、心ながらおぼゆるをりをりもはべりしを、見知らぬやうにて、久しきとだえをも、かうたまさかなる人とも思ひたらず、ただ朝夕にもてつけたらむありさまに見えて、心苦しかりしかば、頼めわたることなどもありきかし。
親もなく、いと心細げにて、さらば此の人こそは、と、
親もなく、いと心細げにて、さらばこの人こそはと、事にふれて思へるさまもらうたげなりき。かうのどけきにおだしくて、久しくまからざりしころ、この見たまふるわたりより、情けなくうたてあることをなむ、さるたよりありてかすめ言はせたりける、後にこそ聞きはべりしか。
さる憂きことやあらむとも知らず、心には忘れずながら、消息などもせで久しくはべりしに、むげに思ひしをれて心細かりければ、幼き者などもありしに思ひわづらひて、撫子の花を折りておこせたりし」とて涙ぐみたり。
「さて、その文の言葉は」と問ひたまへば、
「いさや、ことなることもなかりきや。
『山がつの垣ほ荒るとも折々に
あはれはかけよ撫子の露』
思ひ出でしままにまかりたりしかば、例のうらもなきものから、いと物思ひ顔にて、荒れたる家の露しげきを眺めて、虫の音に競へるけしき、昔物語めきておぼえはべりし。
(中将)『さきまじる色はいづれとわかねども
『咲きまじる色はいづれと分かねども
なほ常夏にしくものぞなき』
大和撫子をばさしおきて、まづ『塵をだに』など、親の心をとる。
『うち払ふ袖も露けき常夏に
あらし吹きそふ秋も来にけり』
とはかなげに言ひなして、まめまめしく恨みたるさまも見えず。涙をもらし落としても、いと恥づかしくつつましげに紛らはし隠して、つらきをも思ひ知りけりと見えむは、わりなく苦しきものと思ひたりしかば、心やすくて、またとだえ置きはべりしほどに、跡もなくこそかき消ちて失せにしか。
まだ世にあらば、はかなき世にぞさすらふらむ。
まだ世にあらば、はかなき世にぞさすらふらむ。あはれと思ひしほどに、わづらはしげに思ひまとはすけしき見えましかば、かくもあくがらさざらまし。こよなきとだえおかず、さるものにしなして長く見るやうもはべりなまし。かの撫子のらうたくはべりしかば、いかで尋ねむと思ひたまふるを、今もえこそ聞きつけはべらね。
これこそのたまへるはかなき例なめれ。つれなくてつらしと思ひけるも知らで、あはれ絶えざりしも、益なき片思ひなりけり。今やうやう忘れゆく際に、かれはたえしも思ひ離れず、折々人やりならぬ胸焦がるる夕べもあらむとおぼえはべり。これなむ、え保つまじく頼もしげなき方なりける。
されば、かのさがなものも、思ひいであるかたに忘れがたけれど、
されば、かのさがな者も、思ひ出である方に忘れがたけれど、さしあたりて見むにはわづらはしくよ、よくせずは、飽きたきこともありなむや。琴の音すすめけむかどかどしさも、好きたる罪重かるべし。この心もとなきも、疑ひ添ふべければ、いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ。世の中や、ただかくこそ。とりどりに比べ苦しかるべき。このさまざまのよき限りをとり具し、難ずべきくさはひまぜぬ人は、いづこにかはあらむ。吉祥天女を思ひかけむとすれば、法気づき、くすしからむこそ、また、わびしかりぬべけれ」とて、皆笑ひぬ。
(中将)「式部がところにぞ、気色ある事はあらむ、
「式部がところにぞ、けしきあることはあらむ。すこしづつ語り申せ」と責めらる。
「下が下の中には、なでふことか、聞こし召しどころはべらむ」
と言へど、頭の君、まめやかに「遅し」と責めたまへば、何事をとり申さむと思ひめぐらすに、
「まだ文章生にはべりし時、かしこき女の例をなむ見たまへし。かの、馬頭の申したまへるやうに、公事をも言ひあはせ、私ざまの世に住まふべき心おきてを思ひめぐらさむ方もいたり深く、才の際なまなまの博士恥づかしく、すべて口あかすべくなむはべらざりし。
それは、ある博士のもとに、学問などし侍るとて、
それは、ある博士のもとに学問などしはべるとて、まかり通ひしほどに、主人のむすめども多かりと聞きたまへて、はかなきついでに言ひ寄りてはべりしを、親聞きつけて、盃持て出でて、『わが両つの途歌ふを聴け』となむ、聞こえごちはべりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かの親の心を憚りて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれに思ひ後見、寝覚の語らひにも、身の才つき、朝廷に仕うまつるべき道々しきことを教へて、いときよげに消息文にも仮名といふもの書きまぜず、むべむべしく言ひまはしはべるに、おのづからえまかり絶えで、その者を師としてなむ、わづかなる腰折文作ることなど習ひはべりしかば、今にその恩は忘れはべらねど、なつかしき妻子とうち頼まむには、無才の人、なま悪ろならむ振る舞ひなど見えむに、恥づかしくなむ見えはべりし。
まいて君だちの御ため、はかばかしく、
まいて君達の御ため、はかばかしくしたたかなる御後見は、何にかせさせたまはむ。はかなし、口惜し、とかつ見つつも、ただわが心につき、宿世の引く方はべるめれば、男しもなむ、仔細なきものははべめる」
と申せば、残りを言はせむとて、「さてさてをかしかりける女かな」とすかいたまふを、心は得ながら、鼻のわたりをこづきて語りなす。
コンテンツ名 | 源氏物語全講会 第16回 「帚木」より その7 |
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収録日 | 2002年5月9日 |
講師 | 岡野弘彦(國學院大學名誉教授) |
講座名:平成14年春期講座 |
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