第18回 「帚木」より その9
源氏は方違えに出かけた邸宅の風情や、さかなを用意したりする様子を興味深く思う。雨夜の品定めの余韻も胸に秘め、邸宅の主の伊予介の後添い、空蝉の様子に心惹かれてしまう。
講師:岡野弘彦
守、「にはかに」と、わぶれど、人も聞き入れず。
守、「にはかに」とわぶれど、人も聞き入れず。寝殿の東面払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。水の心ばへなど、さる方にをかしくしなしたり。田舎家だつ柴垣して、前栽など心とめて植ゑたり。風涼しくて、そこはかとなき虫の声々聞こえ、蛍しげく飛びまがひて、をかしきほどなり。
人びと、渡殿より出でたる泉にのぞきゐて、酒呑む。主人も肴求むと、こゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかに眺めたまひて、かの、中の品に取り出でて言ひし、この並ならむかしと思し出づ。
思ひあがれる気色に、聞き置き給へるむすめ女なれば、
思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば、ゆかしくて耳とどめたまへるに、この西面にぞ人のけはひする。衣の音なひはらはらとして、若き声どもにくからず。さすがに忍びて、笑ひなどするけはひ、ことさらびたり。格子を上げたりけれど、守、「心なし」とむつかりて下しつれば、火灯したる透影、障子の上より漏りたるに、やをら寄りたまひて、「見ゆや」と思せど、隙もなければ、しばし聞きたまふに、この近き母屋に集ひゐたるなるべし、うちささめき言ふことどもを聞きたまへば、わが御上なるべし。
「いといたうまめだちて、まだきにやむごとなきよすが、
「いといたうまめだちて。まだきに、やむごとなきよすが定まりたまへるこそ、さうざうしかめれ」
「されど、さるべき隈には、よくこそ、隠れ歩きたまふなれ」
など言ふにも、思すことのみ心にかかりたまへば、まづ胸つぶれて、「かやうのついでにも、人の言ひ漏らさむを、聞きつけたらむ時」などおぼえたまふ。
ことなることなければ、聞きさしたまひつ。式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌などを、すこしほほゆがめて語るも聞こゆ。「くつろぎがましく、歌誦じがちにもあるかな、なほ見劣りはしなむかし」と思す。
守出で来て、灯籠掛け添へ、灯明くかかげなどして、御くだものばかり参れり。
「とばり帳も、いかにぞは。さる方の心もとなくては、めざましき饗応ならむ」とのたまへば、
「何よけむとも、えうけたまはらず」と、かしこまりてさぶらふ。端つ方の御座に、仮なるやうにて大殿籠もれば、人びとも静まりぬ。
あるじの子どもをかしげにてあり。
主人の子ども、をかしげにてあり。童なる、殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり。伊予介の子もあり。あまたある中に、いとけはひあてはかにて、十二、三ばかりなるもあり。
「いづれかいづれ」など問ひたまふに、
「これは、故衛門督の末の子にて、いとかなしくしはべりけるを、幼きほどに後れはべりて、姉なる人のよすがに、かくてはべるなり。才などもつきはべりぬべく、けしうははべらぬを、殿上なども思ひたまへかけながら、すがすがしうはえ交じらひはべらざめる」と申す。
「あはれのことや。この姉君や、まうとの後の親」
「さなむはべる」と申すに、
「似げなき親をも、まうけたりけるかな。主上にも聞こし召しおきて、『宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし、いかになりにけむ』と、いつぞやのたまはせし。世こそ定めなきものなれ」と、いとおよすけのたまふ。
「不意に、かくてものしはべるなり。世の中といふもの、さのみこそ、今も昔も、定まりたることはべらね。中についても、女の宿世は浮かびたるなむ、あはれにはべる」など聞こえさす。
(源氏)「伊予の介はかしづくや。君と思ふらむな」
「伊予介は、かしづくや。君と思ふらむな」
「いかがは。私の主とこそは思ひてはべるめるを、好き好きしきことと、なにがしよりはじめて、うけひきはべらずなむ」と申す。
「さりとも、まうとたちのつきづきしく今めきたらむに、おろしたてむやは。かの介は、いとよしありて気色ばめるをや」など、物語したまひて、
「いづかたにぞ」
「皆、下屋におろしはべりぬるを、えやまかりおりあへざらむ」と聞こゆ。
酔ひすすみて、皆人びと簀子に臥しつつ、静まりぬ。
[第三段 空蝉の寝所に忍び込む]
君は、とけても寝られたまはず、いたづら臥しと思さるるに御目覚めて、この北の障子のあなたに人のけはひするを、「こなたや、かくいふ人の隠れたる方ならむ、あはれや」と御心とどめて、やをら起きて立ち聞きたまへば、ありつる子の声にて、
「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ」
と、かれたる声のをかしきにて言へば、
「ここにぞ臥したる。客人は寝たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されど、け遠かりけり」
と言ふ。寝たりける声のしどけなき、いとよく似通ひたれば、いもうとと聞きたまひつ。
(子)「廂にぞ大殿籠りぬる。音に聞きつる御ありさまを見奉りつる。
「廂にぞ大殿籠もりぬる。音に聞きつる御ありさまを見たてまつりつる、げにこそめでたかりけれ」と、みそかに言ふ。
「昼ならましかば、覗きて見たてまつりてまし」
とねぶたげに言ひて、顔ひき入れつる声す。「ねたう、心とどめても問ひ聞けかし」とあぢきなく思す。
「まろは端に寝はべらむ。あなくるし」
とて、灯かかげなどすべし。女君は、ただこの障子口筋交ひたるほどにぞ臥したるべき。
「中将の君はいづくにぞ。人げ遠き心地して、もの恐ろし」
と言ふなれば、長押の下に、人びと臥して答へすなり。
「下に湯におりて。『ただ今参らむ』とはべる」と言ふ。
皆しずまりたるけはひなれば、かけがねを試みに引きあけ給へれば、
皆静まりたるけはひなれば、掛金を試みに引きあけたまへれば、あなたよりは鎖さざりけり。几帳を障子口には立てて、灯はほの暗きに、見たまへば唐櫃だつ物どもを置きたれば、乱りがはしき中を、分け入りたまへれば、ただ一人いとささやかにて臥したり。なまわづらはしけれど、上なる衣押しやるまで、求めつる人と思へり。
「中将召しつればなむ。人知れぬ思ひの、しるしある心地して」
とのたまふを、ともかくも思ひ分かれず、物に襲はるる心地して、「や」とおびゆれど、顔に衣のさはりて、音にも立てず。
(源氏)「うちつけに、深からぬ心のほどと見給ふらむ、
「うちつけに、深からぬ心のほどと見たまふらむ、ことわりなれど、年ごろ思ひわたる心のうちも、聞こえ知らせむとてなむ。かかるをりを待ち出でたるも、さらに浅くはあらじと、思ひなしたまへ」
と、いとやはらかにのたまひて、鬼神も荒だつまじきけはひなれば、はしたなく、「ここに、人」とも、えののしらず。心地はた、わびしく、あるまじきことと思へば、あさましく、
「人違へにこそはべるめれ」と言ふも息の下なり。
コンテンツ名 | 源氏物語全講会 第18回 「帚木」より その9 |
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収録日 | 2002年5月23日 |
講師 | 岡野弘彦(國學院大學名誉教授) |
講座名:平成14年春期講座 |
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