第32回 「夕顔」より その10
冒頭シンポジウム「『源氏物語』と根生いの心~世界に響くやまとことばの世界~」の予告。右近から、頭中将と、物おじしやすく、相手に気を遣い気持ちを隠してしまった夕顔のことを聞く。折しも空蝉から文が。
講師:岡野弘彦
- 目次
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- はじめに
- 七日七日に仏かゝせても、誰(た)がためとか心のうちにも思はむ
- それもいと見苦しきに、住みわび給ひて、山里にうつろひなむとおぼしたりしを、
- 世の人に似ず、ものづつみをし給ひて、人に物思ふ気色を見えむを、
- (源氏)「幼き人まどはしたりと、中将の憂へしは、さる人や」と問ひ給ふ。
- (源氏)「かの中将にも伝ふべけれど、いふかひなきかごと負ひなむ。
- 夕暮の静かなるに、空の気色いとあはれに、
- 竹のなかに家鳩といふ鳥の、ふつゝかに鳴くを聞き給ひて、
- (右近)「十九にやなり給ひけむ。右近は、なくなりにける御めのとの、
- (源氏)「はかなびたるこそは、らうたけれ。
- かの伊予の家の小君参る折りあれど、ことにありしやうなる言伝てもし給はねば、
- なほ、かのもぬけを忘れ給はぬを、いとほしうもをかしうも思ひけり。
はじめに
フォーラム「『源氏物語』と根生いの心 ~世界に響くやまとことばの世界~」(平成15年6月開催)について
七日七日に仏かゝせても、誰(た)がためとか心のうちにも思はむ
七日七日に仏かゝせても、誰(た)がためとか心のうちにも思はむ」と宣へば、(右近)「何か隔て聞えさせ侍らむ。みづから忍び過ぐし給ひし事を、なき御うしろに、口さがなくやは、と思ひ給ふるばかりになむ。親たちははやうせ給ひにき。三位の中将となむ聞えし。いとらうたきものに思ひ聞え給へりしかど、我が身のほどの心もとなさをおぼすめりしに、命さへ堪へ給はずなりにしのち、はかなきもののたよりにて、頭の中将なむ、まだ少将にものし給ひし時、見そめ奉らせ給ひて、みとせばかりは心ざしあるさまに通ひ給ひしを、こぞの秋ごろ、かの右の大殿より、いと恐ろしき事の聞え、まうで来(こ)しに、ものおぢをわりなくし給ひし御心に、せむかたなくおぼしおぢて、西(にし)の京(きやう)に御めのとの住み侍る所になむ、はひ隠れ給へりし。
それもいと見苦しきに、住みわび給ひて、山里にうつろひなむとおぼしたりしを、
それもいと見苦しきに、住みわび給ひて、山里にうつろひなむとおぼしたりしを、今年よりはふたがりけるかたに侍りければ、たがふとて、あやしき所に物し給ひしを、見あらはされ奉りぬる事と、おぼし嘆くめりし。
世の人に似ず、ものづつみをし給ひて、人に物思ふ気色を見えむを、
世の人に似ず、ものづつみをし給ひて、人に物思ふ気色を見えむを、恥づかしきものにし給ひて、つれなくのみもてなして御覧ぜられ奉り給ふめりしか」と語り出づるに、「さればよ」と、おぼしあはせて、いよいよ哀れまさりぬ 。
(源氏)「幼き人まどはしたりと、中将の憂へしは、さる人や」と問ひ給ふ。
(源氏)「幼き人まどはしたりと、中将の憂へしは、さる人や」と問ひ給ふ。(右近)「しか。をとゝしの春ぞ物し給へりし。女にて、いとらうたげになむ」と語る。(源氏)「さていづこにぞ。人にさとは知らせで、我にえさせよ。あとはかなくいみじと思ふ御かたみに、いと嬉(うれ)しかるべくなむ」と宣ふ 。
(源氏)「かの中将にも伝ふべけれど、いふかひなきかごと負ひなむ。
(源氏)「かの中将にも伝ふべけれど、いふかひなきかごと負ひなむ。とざまかうざまにつけて、はぐくまむに咎(とが)あるまじきを、そのあらむ乳母(めのと)などにも、ことざまに言ひなして、ものせよかし」など語らひ給ふ。(右近)「さらばいと嬉しくなむ侍るべき。かの西の京にて生ひ出で給はむは、心苦しくなむ。はかばかしく扱ふ人なしとて、かしこになむ」と聞ゆ。
夕暮の静かなるに、空の気色いとあはれに、
夕暮(ゆふぐれ)の静かなるに、空の気色いとあはれに、おまへの前栽(せんざい)かれがれに、虫のねも鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、絵にかきたるやうにおもしろきを、見わたして、「心よりほかにをかしきまじらひかな」と、かの夕顔のやどりを思ひ出づるも恥づかし。
竹のなかに家鳩といふ鳥の、ふつゝかに鳴くを聞き給ひて、
竹のなかに家鳩(いへばと)といふ鳥の、ふつゝかに鳴くを聞き給ひて、かのありし院に此の鳥の鳴きしを、いとおそろしと思ひたりしさまの、おもかげにらうたく思ほしいでらるれば、(源氏)「年はいくつにか物し給ひし。あやしく、世の人に似ずあえかに見え給ひしも、かく長かるまじくてなりけり」と宣ふ。
(右近)「十九にやなり給ひけむ。右近は、なくなりにける御めのとの、
(右近)「十九にやなり給ひけむ。右近は、なくなりにける御めのとの、捨ておきて侍りければ、三位の君のらうたがり給ひて、かの御あたり去らず、おほしたて給ひしを、思ひ給へ出づれば、いかでか世に侍らむとすらむ。いとしも人にと、くやしくなむ。物はかなげに物し給ひし人の御心を、頼もしき人にて、年ごろ、慣らひ侍りけること」と聞ゆ。
(源氏)「はかなびたるこそは、らうたけれ。
(源氏)「はかなびたるこそは、らうたけれ。かしこく、人になびかぬ、いと心づきなきわざなり。みづからはかばかしくすくよかならぬ心慣らひに、女は只やはらかに、とりはづして人にあざむかれぬべきが、さすがにものづつみし、見む人の心には従はむなむ、哀れにて、わが心のままにとりなほして見むに、なつかしくおぼゆべき」など宣へば、(右近)「このかたの御好みには、もて離れ給はざりけりと思ひ給ふるにも、くちをしく侍るわざかな」とて泣く。
空のうち曇りて、風ひやゝかなるに、いといたくながめ給ひて、
(源氏)「見し人のけぶりを雲とながむれば夕べの空もむつまじきかな」
と、ひとりごち給へど、えさしいらへも聞えず。「かやうにておはせましかば」と思ふにも、胸ふたがりておぼゆ。耳かしがましかりし砧(きぬた)の音をおぼし出づるさへ、恋しくて、(源氏)「まさに長き夜」と、うちずんじて、臥(ふ)し給へり。
かの伊予の家の小君参る折りあれど、ことにありしやうなる言伝てもし給はねば、
かの伊予の家の小君参る折りあれど、ことにありしやうなる言伝(ことづ)てもし給はねば、うしとおぼしはてにけるを、いとほしと思ふに、かくわづらひ給ふを聞きて、さすがにうち嘆きけり。遠く下(くだ)りなむとするを、さすがに心細ければ、おぼし忘れぬるかと、こゝろみに、(空蝉)「うけたまはり悩むを、言(こと)にいでてはえこそ、
とはぬをもなどかととはで程ふるにいかばかりかは思ひ乱るゝ
ますだは、まことになむ」と、聞えたり。珍しきに、これもあはれ忘れ給はず。(源氏)「生けるかひなきや、誰(た)が言はましごとにか。
空蝉の世はうきものと知りにしをまた言の葉にかゝる命よ
はかなしや」と、御手もうちわなゝかるゝに、乱れ書き給へる、いとゞうつくしげなり。
なほ、かのもぬけを忘れ給はぬを、いとほしうもをかしうも思ひけり。
なほ、かのもぬけを忘れ給はぬを、いとほしうもをかしうも思ひけり。かやうに憎からずは聞えかはせど、け近くとは思ひよらず。さすがに言ふかひなからずは見え奉りてやみなむ、と思ふなりけり。
コンテンツ名 | 源氏物語全講会 第32回 「夕顔」より その10 |
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収録日 | 2003年5月8日 |
講師 | 岡野弘彦(國學院大學名誉教授) |
平成15年春期講座 |
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