第99回 「乙女」その7~「玉葛」その1
秋の彼岸のころ、一斉に六条邸へ移ることにしたが、(梅壷)中宮は五六日後に移る。九月に入り、梅壷(秋好)中宮と紫の上は春秋の良さのやりとりをする。大堰の御方(明石君)は十月に移る。後半は「独立した中編小説になり得るような世界なんです」と解説して玉葛に。忘れることのできない夕顔の遺児、西の京にいた若君(玉葛)は、乳母たちの一家に連れられて筑紫へ下り、理想的な姫君に育った。好色めいた田舎人どもが、思いをかけて文をやる真似事をする。その中に、大夫監という肥後の国の一族で、このあたりにかけてなかなか評判の者がいた。
講師:岡野弘彦
彼岸のころほひ渡りたまふ。
彼岸のころほひ渡りたまふ。ひとたびにと定めさせたまひしかど、騒がしきやうなりとて、中宮はすこし延べさせたまふ。例のおいらかにけしきばまぬ花散里ぞ、その夜、添ひて移ろひたまふ。
春の御しつらひは、このころに合はねど、いと心ことなり。御車十五、御前四位五位がちにて、六位の殿上人などは、さるべき限りを選らせたまへり。こちたきほどにはあらず、世のそしりもやと省きたまへれば、何事もおどろおどろしういかめしきことはなし。
今一方の御けしきも、をさをさ落としたまはで、侍従君添ひて、そなたはもてかしづきたまへば、げにかうもあるべきことなりけりと見えたり。
女房の曹司町ども、当て当てのこまけぞ、おほかたのことよりもめでたかりける。
五、六日過ぎて、中宮まかでさせたまふ。
五、六日過ぎて、中宮まかでさせたまふ。この御けしきはた、さは言へど、いと所狭し。御幸ひのすぐれたまへりけるをばさるものにて、御ありさまの心にくく重りかにおはしませば、世に重く思はれたまへること、すぐれてなむおはしましける。 この町々の中の隔てには、塀ども廊などを、とかく行き通はして、気近くをかしきあはひにしなしたまへり。
長月になれば、紅葉むらむら色づきて、宮の御前えも言はずおもしろし。
長月になれば、紅葉むらむら色づきて、宮の御前えも言はずおもしろし。風うち吹きたる夕暮に、御箱の蓋に、色々の花紅葉をこき混ぜて、こなたにたてまつらせたまへり。
大きやかなる童女の、濃き衵、紫苑の織物重ねて、赤朽葉の羅の汗衫、いといたうなれて、廊、渡殿の反橋を渡りて参る。うるはしき儀式なれど、童女のをかしきをなむ、え思し捨てざりける。さる所にさぶらひなれたれば、もてなし、ありさま、他のには似ず、このましうをかし。御消息には、
「心から春まつ園はわが宿の
紅葉を風のつてにだに見よ」
若き人々、御使もてはやすさまどもをかし。
御返りは、この御箱の蓋に苔敷き、巌などの心ばへして、五葉の枝に、
「風に散る紅葉は軽し春の色を
岩根の松にかけてこそ見め」
この岩根の松も、こまかに見れば、えならぬ作りごとどもなりけり。とりあへず思ひ寄りたまへるゆゑゆゑしさなどを、をかしく御覧ず。御前なる人びともめであへり。大臣、
「この紅葉の御消息、いとねたげなめり。春の花盛りに、この御応へは聞こえたまへ。このころ紅葉を言ひ朽さむは、龍田姫の思はむこともあるを、さし退きて、花の蔭に立ち隠れてこそ、強きことは出で来め」
と聞こえたまふも、いと若やかに尽きせぬ御ありさまの見どころ多かるに、いとど思ふやうなる御住まひにて、聞こえ通はしたまふ。
大堰の御方は、「かう方々の御移ろひ定まりて、数ならぬ人は、いつとなく紛らはさむ」と思して、神無月になむ渡りたまひける。御しつらひ、ことのありさま劣らずして、渡したてまつりたまふ。姫君の御ためを思せば、おほかたの作法も、けぢめこよなからず、いとものものしくもてなさせたまへり。
玉葛について
・独立した中編小説になり得るような玉葛の巻の魅力
・夕顔と玉葛
・もう一度、夕顔の巻について
・夕顔をとり殺した霊魂の正体とは
・日本の研究者がテーマにしたがらない霊魂に関わる研究
年月隔たりぬれど、飽かざりし夕顔を、つゆ忘れたまはず、
玉葛
年月隔たりぬれど、飽かざりし夕顔を、つゆ忘れたまはず、心々なる人のありさまどもを、見たまひ重ぬるにつけても、「あらましかば」と、あはれに口惜しくのみ思し出づ。
右近は、何の人数ならねど、なほ、その形見と見たまひて、らうたきものに思したれば、古人の数に仕うまつり馴れたり。須磨の御移ろひのほどに、対の上の御方に、皆人びと聞こえ渡したまひしほどより、そなたにさぶらふ。心よくかいひそめたるものに、女君も思したれど、心のうちには、
「故君ものしたまはましかば、明石の御方ばかりのおぼえには劣りたまはざらまし。さしも深き御心ざしなかりけるをだに、落としあぶさず、取りしたためたまふ御心長さなりければ、まいて、やむごとなき列にこそあらざらめ、この御殿移りの数のうちには交じらひたまひなまし」
と思ふに、飽かず悲しくなむ思ひける。
かの西の京にとまりし若君をだに行方も知らず、
かの西の京にとまりし若君をだに行方も知らず、ひとへにものを思ひつつみ、また、「今さらにかひなきことによりて、我が名漏らすな」と、口がためたまひしを憚りきこえて、尋ねても音づれきこえざりしほどに、その御乳母の男、少弐になりて、行きければ、下りにけり。
かの若君の四つになる年ぞ、筑紫へは行きける。
かの若君の四つになる年ぞ、筑紫へは行きける。
母君の御行方を知らむと、よろづの神仏に申して、夜昼泣き恋ひて、さるべき所々を尋ねきこえけれど、つひにえ聞き出でず。
「さらばいかがはせむ。若君をだにこそは、御形見に見たてまつらめ。あやしき道に添へたてまつりて、遥かなるほどにおはせむことの悲しきこと。なほ、父君にほのめかさむ」
と思ひけれど、さるべきたよりもなきうちに、
「母君のおはしけむ方も知らず、尋ね問ひたまはば、いかが聞こえむ」
「まだ、よくも見なれたまはぬに、幼き人をとどめたてまつりたまはむも、うしろめたかるべし」
「知りながら、はた、率て下りねと許したまふべきにもあらず」
など、おのがじし語らひあはせて、いとうつくしう、ただ今から気高くきよらなる御さまを、ことなるしつらひなき舟に乗せて漕ぎ出づるほどは、いとあはれになむおぼえける。
幼き心地に、母君を忘れず、折々に、
「母の御もとへ行くか」
と問ひたまふにつけて、涙絶ゆる時なく、娘どもも思ひこがるるを、「舟路ゆゆし」と、かつは諌めけり。
おもしろき所々を見つつ、
おもしろき所々を見つつ、
「心若うおはせしものを、かかる路をも見せたてまつるものにもがな」
「おはせましかば、われらは下らざらまし」
と、京の方を思ひやらるるに、帰る浪もうらやましく、心細きに、舟子どもの荒々しき声にて、
「うらがなしくも、遠く来にけるかな」
と、歌ふを聞くままに、二人さし向ひて泣きけり。
「舟人もたれを恋ふとか大島の
うらがなしげに声の聞こゆる」
「来し方も行方も知らぬ沖に出でて
あはれいづくに君を恋ふらむ」
鄙の別れに、おのがじし心をやりて言ひける。
金の岬過ぎて、「われは忘れず」など、世とともの言種になりて、
金の岬過ぎて、「われは忘れず」など、世とともの言種になりて、かしこに到り着きては、まいて遥かなるほどを思ひやりて、恋ひ泣きて、この君をかしづきものにて、明かし暮らす。
夢などに、いとたまさかに見えたまふ時などもあり。同じさまなる女など、添ひたまうて見えたまへば、名残心地悪しく悩みなどしければ、
「なほ、世に亡くなりたまひにけるなめり」
と思ひなるも、いみじくのみなむ。
少弐、任果てて上りなどするに、遥けきほどに、
少弐、任果てて上りなどするに、遥けきほどに、ことなる勢ひなき人は、たゆたひつつ、すがすがしくも出で立たぬほどに、重き病して、死なむとする心地にも、この君の十ばかりにもなりたまへるさまの、ゆゆしきまでをかしげなるを見たてまつりて、
「我さへうち捨てたてまつりて、いかなるさまにはふれたまはむとすらむ。あやしき所に生ひ出でたまふも、かたじけなく思ひきこゆれど、いつしかも京に率てたてまつりて、さるべき人にも知らせたてまつりて、御宿世にまかせて見たてまつらむにも、都は広き所なれば、いと心やすかるべしと、思ひいそぎつるを、ここながら命堪へずなりぬること」
と、うしろめたがる。男子三人あるに、
「ただこの姫君、京に率てたてまつるべきことを思へ。わが身の孝をば、な思ひそ」
となむ言ひ置きける。
その人の御子とは、館の人にも知らせず、
その人の御子とは、館の人にも知らせず、ただ「孫のかしづくべきゆゑある」とぞ言ひなしければ、人に見せず、限りなくかしづききこゆるほどに、にはかに亡せぬれば、あはれに心細くて、ただ京の出で立ちをすれど、この少弐の仲悪しかりける国の人多くなどして、とざまかうざまに、懼ぢ憚りて、われにもあらで年を過ぐすに、この君、ねびととのひたまふままに、母君よりもまさりてきよらに、父大臣の筋さへ加はればにや、品高くうつくしげなり。心ばせおほどかにあらまほしうものしたまふ。
聞きついつつ、好いたる田舎人ども、心かけ消息がる、いと多かり。ゆゆしくめざましくおぼゆれば、誰も誰も聞き入れず。
「容貌などは、さてもありぬべけれど、いみじきかたはのあれば、人にも見せで尼になして、わが世の限りは持たらむ」
と言ひ散らしたれば、
「故少弐の孫は、かたはなむあむなる」
「あたらものを」
と、言ふなるを聞くもゆゆしく、
「いかさまにして、都に率てたてまつりて、父大臣に知らせたてまつらむ。いときなきほどを、いとらうたしと思ひきこえたまへりしかば、さりともおろかには思ひ捨てきこえたまはじ」
など言ひ嘆くほど、仏神に願を立ててなむ念じける。
娘どもも男子どもも、所につけたるよすがども出で来て、
娘どもも男子どもも、所につけたるよすがども出で来て、住みつきにたり。心のうちにこそ急ぎ思へど、京のことはいや遠ざかるやうに隔たりゆく。もの思し知るままに、世をいと憂きものに思して、年三などしたまふ。二十ばかりになりたまふままに、生ひととのほりて、いとあたらしくめでたし。
この住む所は、肥前国とぞいひける。そのわたりにもいささか由ある人は、まづこの少弐の孫のありさまを聞き伝へて、なほ、絶えず訪れ来るも、いといみじう、耳かしかましきまでなむ。
大夫監とて、肥後国に族広くて、かしこにつけてはおぼえあり、勢ひいかめしき武士ありけり。むくつけき心のなかに、いささか好きたる心混じりて、容貌ある女を集めて見むと思ひける。この姫君を聞きつけて、
「いみじきかたはありとも、我は見隠して持たらむ」
と、いとねむごろに言ひかかるを、いとむくつけく思ひて、
「いかで、かかることを聞かで、尼になりなむとす」
と、言はせたれば、いよいよあやふがりて、おしてこの国に越え来ぬ。
コンテンツ名 | 源氏物語全講会 第99回 「乙女」その7~「玉葛」その1 |
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収録日 | 2007年11月10日 |
講師 | 岡野弘彦(國學院大學名誉教授) |
平成19年秋期講座 |
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