源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第115回 「野分」より その2

中将(夕霧)は源氏に命じられて(秋好)中宮を見舞う。源氏は中宮、明石の御方(君)、西の対(玉葛)、東の御方(花散里)を見舞う。夕霧は源氏と玉葛の様子に動揺する。夕霧は祖母宮(大宮)を見舞う。内大臣は大宮と、姫君(雲居雁)、不調なる娘(近江の君)について語る。

「いとおどろおどろしかりつる風に、

「いとおどろおどろしかりつる風に、中宮に、はかばかしき宮司などさぶらひつらむや」
  とて、この君して、御消息聞こえたまふ。
  「夜の風の音は、いかが聞こし召しつらむ。吹き乱りはべりしに、おこりあひはべりて、いと堪へがたき、ためらひはべるほどになむ」
  と聞こえたまふ。

中将下りて、中の廊の戸より通りて、参りたまふ。

 中将下りて、中の廊の戸より通りて、参りたまふ。朝ぼらけの容貌、いとめでたくをかしげなり。東の対の南の側に立ちて、御前の方を見やりたまへば、御格子、まだ二間ばかり上げて、ほのかなる朝ぼらけのほどに、御簾巻き上げて人びとゐたり。
  高欄に押しかかりつつ、若やかなる限りあまた見ゆ。うちとけたるはいかがあらむ、さやかならぬ明けぼののほど、色々なる姿は、いづれともなくをかし。
  童女下ろさせたまひて、虫の籠どもに露飼はせたまふなりけり。紫苑、撫子、濃き薄き衵どもに、女郎花の汗衫などやうの、時にあひたるさまにて、四、五人連れて、ここかしこの草むらに寄りて、色々の籠どもを持てさまよひ、撫子などの、いとあはれげなる枝ども取り持て参る、霧のまよひは、いと艶にぞ見えける。
  吹き来る追風は、紫苑ことごとに匂ふ空も、香のかをりも、触ればひたまへる御けはひにやと、いと思ひやりめでたく、心懸想せられて、立ち出でにくけれど、忍びやかにうちおとなひて、歩み出でたまへるに、人びと、けざやかにおどろき顔にはあらねど、皆すべり入りぬ。
  御参りのほどなど、童なりしに、入り立ち馴れたまへる、女房なども、いとけうとくはあらず。御消息啓せさせたまひて、宰相の君、内侍など、けはひすれば、私事も忍びやかに語らひたまふ。これはた、さいへど、気高く住みたるけはひありさまを見るにも、さまざまにもの思ひ出でらる。

南の御殿には、御格子参りわたして、昨夜、見捨てがたかりし花どもの、

 南の御殿には、御格子参りわたして、昨夜、見捨てがたかりし花どもの、行方も知らぬやうにてしをれ伏したるを見たまひけり。中将、御階にゐたまひて、御返り聞こえたまふ。
  「荒き風をも防がせたまふべくやと、若々しく心細くおぼえはべるを、今なむ慰みはべりぬる」
  と聞こえたまへれば、
  「あやしくあえかにおはする宮なり。女どちは、もの恐ろしく思しぬべかりつる夜のさまなれば、げに、おろかなりとも思いつらむ」
  とて、やがて参りたまふ。

御直衣などたてまつるとて、御簾引き上げて入りたまふに、

 御直衣などたてまつるとて、御簾引き上げて入りたまふに、「短き御几帳引き寄せて、はつかに見ゆる御袖口は、さにこそはあらめ」と思ふに、胸つぶつぶと鳴る心地するも、うたてあれば、他ざまに見やりつ。
  殿、御鏡など見たまひて、忍びて、
  「中将の朝けの姿は、きよげなりな。ただ今は、きびはなるべきほどを、かたくなしからず見ゆるも、心の闇にや」
  とて、わが御顔は、古りがたくよしと見たまふべかめり。いといたう心懸想したまひて、
  「宮に見えたてまつるは、恥づかしうこそあれ。何ばかりあらはなるゆゑゆゑしさも、見えたまはぬ人の、奥ゆかしく心づかひせられたまふぞかし。いとおほどかに女しきものから、けしきづきてぞおはするや」
  とて、出でたまふに、中将ながめ入りて、とみにもおどろくまじきけしきにてゐたまへるを、心疾き人の御目にはいかが見たまひけむ、立ちかへり、女君に、
  「昨日、風の紛れに、中将は見たてまつりやしてけむ。かの戸の開きたりしによ」
  とのたまへば、面うち赤みて、
  「いかでか、さはあらむ。渡殿の方には、人の音もせざりしものを」
  と聞こえたまふ。
  「なほ、あやし」とひとりごちて、渡りたまひぬ。

御簾の内に入りたまひぬれば、中将、渡殿の戸口に人びとのけはひするに寄りて、

 御簾の内に入りたまひぬれば、中将、渡殿の戸口に人びとのけはひするに寄りて、ものなど言ひ戯るれど、思ふことの筋々嘆かしくて、例よりもしめりてゐたまへり。

こなたより、やがて北に通りて、明石の御方を見やりたまへば、

 こなたより、やがて北に通りて、明石の御方を見やりたまへば、はかばかしき家司だつ人なども見えず、馴れたる下仕ひどもぞ、草の中にまじりて歩く。童女など、をかしき衵姿うちとけて、心とどめ取り分き植ゑたまふ龍胆、朝顔のはひまじれる籬も、みな散り乱れたるを、とかく引き出で尋ぬるなるべし。
  もののあはれにおぼえけるままに、箏の琴を掻きまさぐりつつ、端近うゐたまへるに、御前駆追ふ声のしければ、うちとけ萎えばめる姿に、小袿ひき落として、けぢめ見せたる、いといたし。端の方についゐたまひて、風の騷ぎばかりをとぶらひたまひて、つれなく立ち帰りたまふ、心やましげなり。

  「おほかたに荻の葉過ぐる風の音も
   憂き身ひとつにしむ心地して」

とひとりごちけり。

西の対には、恐ろしと思ひ明かしたまひける、名残に、寝過ぐして、

 西の対には、恐ろしと思ひ明かしたまひける、名残に、寝過ぐして、今ぞ鏡なども見たまひける。
  「ことことしく前駆、な追ひそ」
  とのたまへば、ことに音せで入りたまふ。屏風なども皆畳み寄せ、ものしどけなくしなしたるに、日のはなやかにさし出でたるほど、けざけざと、ものきよげなるさましてゐたまへり。近くゐたまひて、例の、風につけても同じ筋に、むつかしう聞こえ戯れたまへば、堪へずうたてと思ひて、
  「かう心憂ければこそ、今宵の風にもあくがれなまほしくはべりつれ」
  と、むつかりたまへば、いとよくうち笑ひたまひて、
  「風につきてあくがれたまはむや、軽々しからむ。さりとも、止まる方ありなむかし。やうやうかかる御心むけこそ添ひにけれ。ことわりや」
  とのたまへば、
  「げに、うち思ひのままに聞こえてけるかな」
  と思して、みづからもうち笑みたまへる、いとをかしき色あひ、つらつきなり。酸漿などいふめるやうにふくらかにて、髪のかかれる隙々うつくしうおぼゆ。まみのあまりわららかなるぞ、いとしも品高く見えざりける。その他は、つゆ難つくべうもあらず。

中将、いとこまやかに聞こえたまふを、

 中将、いとこまやかに聞こえたまふを、「いかでこの御容貌見てしがな」と思ひわたる心にて、隅の間の御簾の、几帳は添ひながらしどけなきを、やをら引き上げて見るに、紛るるものどもも取りやりたれば、いとよく見ゆ。かく戯れたまふけしきのしるきを、
  「あやしのわざや。親子と聞こえながら、かく懐離れず、もの近かべきほどかは」
  と目とまりぬ。「見やつけたまはむ」と恐ろしけれど、あやしきに、心もおどろきて、なほ見れば、柱隠れにすこしそばみたまへりつるを、引き寄せたまへるに、御髪の並み寄りて、はらはらとこぼれかかりたるほど、女も、いとむつかしく苦しと思うたまへるけしきながら、さすがにいとなごやかなるさまして、寄りかかりたまへるは、
  「ことと馴れ馴れしきにこそあめれ。いで、あなうたて。いかなることにかあらむ。思ひ寄らぬ隈なくおはしける御心にて、もとより見馴れ生ほしたてたまはぬは、かかる御思ひ添ひたまへるなめり。むべなりけりや。あな、疎まし」
  と思ふ心も恥づかし。「女の御さま、げに、はらからといふとも、すこし立ち退きて、異腹ぞかし」など思はむは、「などか、心あやまりもせざらむ」とおぼゆ。
  昨日見し御けはひには、け劣りたれど、見るに笑まるるさまは、立ちも並びぬべく見ゆる。八重山吹の咲き乱れたる盛りに、露のかかれる夕映えぞ、ふと思ひ出でらるる。折にあはぬよそへどもなれど、なほ、うちおぼゆるやうよ。花は限りこそあれ、そそけたるしべなどもまじるかし、人の御容貌のよきは、たとへむ方なきものなりけり。
  御前に人も出で来ず、いとこまやかにうちささめき語らひ聞こえたまふに、いかがあらむ、まめだちてぞ立ちたまふ。女君、

  「吹き乱る風のけしきに女郎花
   しをれしぬべき心地こそすれ」

  詳しくも聞こえぬに、うち誦じたまふをほの聞くに、憎きもののをかしければ、なほ見果てまほしけれど、「近かりけりと見えたてまつらじ」と思ひて、立ち去りぬ。
  御返り、

  「下露になびかましかば女郎花
   荒き風にはしをれざらまし
  なよ竹を見たまへかし」

  など、ひが耳にやありけむ、聞きよくもあらずぞ。

東の御方へ、これよりぞ渡りたまふ。

 東の御方へ、これよりぞ渡りたまふ。今朝の朝寒なるうちとけわざにや、もの裁ちなどするねび御達、御前にあまたして、細櫃めくものに、綿引きかけてまさぐる若人どもあり。いときよらなる朽葉の羅、今様色の二なく擣ちたるなど、引き散らしたまへり。
  「中将の下襲か。御前の壷前栽の宴も止まりぬらむかし。かく吹き散らしてむには、何事かせられむ。すさまじかるべき秋なめり」
  などのたまひて、何にかあらむ、さまざまなるものの色どもの、いときよらなれば、「かやうなる方は、南の上にも劣らずかし」と思す。御直衣、花文綾を、このころ摘み出だしたる花して、はかなく染め出でたまへる、いとあらまほしき色したり。
  「中将にこそ、かやうにては着せたまはめ。若き人のにてめやすかめり」
  などやうのことを聞こえたまひて、渡りたまひぬ。

むつかしき方々めぐりたまふ御供に歩きて、中将は、なま心やましう、

 むつかしき方々めぐりたまふ御供に歩きて、中将は、なま心やましう、書かまほしき文など、日たけぬるを思ひつつ、姫君の御方に参りたまへり。
  「まだあなたになむおはします。風に懼ぢさせたまひて、今朝はえ起き上がりたまはざりつる」
  と、御乳母ぞ聞こゆる。
  「もの騒がしげなりしかば、宿直も仕うまつらむと思ひたまへしを、宮の、いとも心苦しう思いたりしかばなむ。雛の殿は、いかがおはすらむ」
  と問ひたまへば、人びと笑ひて、
  「扇の風だに参れば、いみじきことに思いたるを、ほとほとしくこそ吹き乱りはべりしか。この御殿あつかひに、わびにてはべり」など語る。
  「ことことしからぬ紙やはべる。御局の硯」
  と乞ひたまへば、御厨子に寄りて、紙一巻、御硯の蓋に取りおろしてたてまつれば、
  「いな、これはかたはらいたし」
  とのたまへど、北の御殿のおぼえを思ふに、すこしなのめなる心地して、文書きたまふ。
  紫の薄様なりけり。墨、心とめておしすり、筆の先うち見つつ、こまやかに書きやすらひたまへる、いとよし。されど、あやしく定まりて、憎き口つきこそものしたまへ。

  「風騒ぎむら雲まがふ夕べにも
   忘るる間なく忘られぬ君」

  吹き乱れたる苅萱につけたまへれば、人びと、
  「交野の少将は、紙の色にこそととのへはべりけれ」と聞こゆ。
  「さばかりの色も思ひ分かざりけりや。いづこの野辺のほとりの花」
  など、かやうの人びとにも、言少なに見えて、心解くべくももてなさず、いとすくすくしう気高し。
  またも書いたまうて、馬の助に賜へれば、をかしき童、またいと馴れたる御随身などに、うちささめきて取らするを、若き人びと、ただならずゆかしがる。

渡らせたまふとて、人びとうちそよめき、几帳引き直しなどす。

 渡らせたまふとて、人びとうちそよめき、几帳引き直しなどす。見つる花の顔どもも、思ひ比べまほしうて、例はものゆかしからぬ心地に、あながちに、妻戸の御簾を引き着て、几帳のほころびより見れば、もののそばより、ただはひ渡りたまふほどぞ、ふとうち見えたる。
  人のしげくまがへば、何のあやめも見えぬほどに、いと心もとなし。薄色の御衣に、髪のまだ丈にははづれたる末の、引き広げたるやうにて、いと細く小さき様体、らうたげに心苦し。
  「一昨年ばかりは、たまさかにもほの見たてまつりしに、またこよなく生ひまさりたまふなめりかし。まして盛りいかならむ」と思ふ。「かの見つる先々の、桜、山吹といはば、これは藤の花とやいふべからむ。木高き木より咲きかかりて、風になびきたるにほひは、かくぞあるかし」と思ひよそへらる。「かかる人びとを、心にまかせて明け暮れ見たてまつらばや。さもありぬべきほどながら、隔て隔てのけざやかなるこそつらけれ」など思ふに、まめ心も、なまあくがるる心地す。

祖母宮の御もとにも参りたまへれば、のどやかにて御行なひしたまふ。

 祖母宮の御もとにも参りたまへれば、のどやかにて御行なひしたまふ。よろしき若人など、ここにもさぶらへど、もてなしけはひ、装束どもも、盛りなるあたりには似るべくもあらず。容貌よき尼君たちの、墨染にやつれたるぞ、なかなかかかる所につけては、さるかたにてあはれなりける。
  内の大臣も参りたまへるに、御殿油など参りて、のどやかに御物語など聞こえたまふ。
  「姫君を久しく見たてまつらぬがあさましきこと」
  とて、ただ泣きに泣きにたまふ。
  「今このころのほどに参らせむ。心づからもの思はしげにて、口惜しう衰へにてなむはべめる。女こそ、よく言はば、持ちはべるまじきものなりけれ。とあるにつけても、心のみなむ尽くされはべりける」
  など、なほ心解けず思ひおきたるけしきしてのたまへば、心憂くて、切にも聞こえたまはず。そのついでにも、
  「いと不調なる娘まうけはべりて、もてわづらひはべりぬ」
  と、愁へきこえたまひて、笑ひたまふ。宮、
  「いで、あやし。女といふ名はして、さがなかるやうやある」
  とのたまへば、
  「それなむ見苦しきことになむはべる。いかで、御覧ぜさせむ」
  と、聞こえたまふとや。

コンテンツ名 源氏物語全講会 第115回 「野分」より その2
収録日 2008年10月4日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

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