第116回 「行幸」より その1
折口信夫の「行幸」を紹介し、本文に。源氏は玉葛の女の成人式である裳着の儀式を二月に行おうと思い、重要な役である腰紐を結ぶ役を玉葛の父である内大臣に依頼する。源氏は三条の大宮のところにお見舞いに行き、昔のこと、今のこと、様々に取り集めて申し上げる。
講師:岡野弘彦
- 目次
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- 折口信夫による「行幸」の巻の解説
- かく思しいたらぬことなく、いかでよからむことはと、
- その師走に、大原野の行幸とて、世に残る人なく見騒ぐを、
- 西の対の姫君も立ち出でたまへり。
- かうて、野におはしまし着きて、御輿とどめ、上達部の平張にもの参り、
- またの日、大臣、西の対に、「昨日、主上は見たてまつりたまひきや。
- 「ささのことをそそのかししかど、中宮かくておはす、
- 「とてもかうても、まづ御裳着のことをこそは」と思して、
- 「年返りて、二月に」と思す。
- 今はまして、忍びやかにふるまひたまへど、行幸に劣らずよそほしく、
- 「年の積もりの悩みと思うたまへつつ、月ごろになりぬるを、
- 御物語ども、昔今のとり集め聞こえたまふついでに、
- 「公事のしげきにや、私の心ざしの深からぬにや、
折口信夫による「行幸」の巻の解説
・折口の解説を読むと「行幸」の巻の重要さを感じ取れる
・玉葛の身に大きな転機が訪れる「行幸」の巻
かく思しいたらぬことなく、いかでよからむことはと、
行幸
かく思しいたらぬことなく、いかでよからむことはと、思し扱ひたまへど、この音無の滝こそ、うたていとほしく、南の上の御推し量りごとにかなひて、軽々しかるべき御名なれ。かの大臣、何ごとにつけても、きはぎはしう、すこしもかたはなるさまのことを、思し忍ばずなどものしたまふ御心ざまを、「さて思ひ隈なく、けざやかなる御もてなしなどのあらむにつけては、をこがましうもや」など、思し返さふ。
その師走に、大原野の行幸とて、世に残る人なく見騒ぐを、
その師走に、大原野の行幸とて、世に残る人なく見騒ぐを、六条院よりも、御方々引き出でつつ見たまふ。卯の時に出でたまうて、朱雀より五条の大路を、西ざまに折れたまふ。桂川のもとまで、物見車隙なし。
行幸といへど、かならずかうしもあらぬを、今日は親王たち、上達部も、皆心ことに、御馬鞍をととのへ、随身、馬副の容貌丈だち、装束を飾りたまうつつ、めづらかにをかし。左右大臣、内大臣、納言より下はた、まして残らず仕うまつりたまへり。青色の袍、葡萄染の下襲を、殿上人、五位六位まで着たり。
雪ただいささかづつうち散りて、道の空さへ艶なり。親王たち、上達部なども、鷹にかかづらひたまへるは、めづらしき狩の御よそひどもをまうけたまふ。近衛の鷹飼どもは、まして世に目馴れぬ摺衣を乱れ着つつ、けしきことなり。めづらしうをかしきことに競ひ出でつつ、その人ともなく、かすかなる足弱き車など、輪を押しひしがれ、あはれげなるもあり。浮橋のもとなどにも、好ましう立ちさまよふよき車多かり。
西の対の姫君も立ち出でたまへり。
西の対の姫君も立ち出でたまへり。そこばく挑み尽くしたまへる人の御容貌ありさまを見たまふに、帝の、赤色の御衣たてまつりて、うるはしう動きなき御かたはらめに、なずらひきこゆべき人なし。
わが父大臣を、人知れず目をつけたてまつりたまへど、きらきらしうものきよげに、盛りにはものしたまへど、限りありかし。いと人にすぐれたるただ人と見えて、御輿のうちよりほかに、目移るべくもあらず。
まして、容貌ありや、をかしやなど、若き御達の消えかへり心うつす中少将、何くれの殿上人やうの人は、何にもあらず消えわたれるは、さらに類ひなうおはしますなりけり。源氏の大臣の御顔ざまは、異ものとも見えたまはぬを、思ひなしの今すこしいつかしう、かたじけなくめでたきなり。
さは、かかる類ひはおはしがたかりけり。あてなる人は、皆ものきよげにけはひ異なべいものとのみ、大臣、中将などの御にほひに目馴れたまへるを、出で消えどものかたはなるにやあらむ、同じ目鼻とも見えず、口惜しうぞ圧されたるや。
兵部卿宮もおはす。右大将の、さばかり重りかによしめくも、今日のよそひいとなまめきて、やなぐひなど負ひて、仕うまつりたまへり。色黒く鬚がちに見えて、いと心づきなし。いかでかは、女のつくろひたてたる顔の色あひには似たらむ。いとわりなきことを、若き御心地には、見おとしたまうてけり。
大臣の君の思し寄りてのたまふことを、「いかがはあらむ、宮仕へは、心にもあらで、見苦しきありさまにや」と思ひつつみたまふを、「馴れ馴れしき筋などをばもて離れて、おほかたに仕うまつり御覧ぜられむは、をかしうもありなむかし」とぞ、思ひ寄りたまうける。
かうて、野におはしまし着きて、御輿とどめ、上達部の平張にもの参り、
かうて、野におはしまし着きて、御輿とどめ、上達部の平張にもの参り、御装束ども、直衣、狩のよそひなどに改めたまふほどに、六条院より、御酒、御くだものなどたてまつらせたまへり。今日仕うまつりたまふべく、かねて御けしきありけれど、御物忌のよしを奏せさせたまへりけるなりけり。
蔵人の左衛門尉を御使にて、雉一枝たてまつらせたまふ。仰せ言には何とかや、さやうの折のことまねぶに、わづらはしくなむ。
「雪深き小塩山にたつ雉の
古き跡をも今日は尋ねよ」
太政大臣の、かかる野の行幸に仕うまつりたまへる例などやありけむ。大臣、御使をかしこまりもてなさせたまふ。
「小塩山深雪積もれる松原に
今日ばかりなる跡やなからむ」
と、そのころほひ聞きしことの、そばそば思ひ出でらるるは、ひがことにやあらむ。
またの日、大臣、西の対に、「昨日、主上は見たてまつりたまひきや。
またの日、大臣、西の対に、
「昨日、主上は見たてまつりたまひきや。かのことは、思しなびきぬらむや」
と聞こえたまへり。白き色紙に、いとうちとけたる文、こまかにけしきばみてもあらぬが、をかしきを見たまうて、
「あいなのことや」
と笑ひたまふものから、「よくも推し量らせたまふものかな」と思す。御返りに、
「昨日は、
うちきらし朝ぐもりせし行幸には
さやかに空の光やは見し
おぼつかなき御ことどもになむ」
とあるを、上も見たまふ。
「ささのことをそそのかししかど、中宮かくておはす、
「ささのことをそそのかししかど、中宮かくておはす、ここながらのおぼえには、便なかるべし。かの大臣に知られても、女御かくてまたさぶらひたまへばなど、思ひ乱るめりし筋なり。若人の、さも馴れ仕うまつらむに、憚る思ひなからむは、主上をほの見たてまつりて、えかけ離れて思ふはあらじ」
とのたまへば、
「あな、うたて。めでたしと見たてまつるとも、心もて宮仕ひ思ひ立たむこそ、いとさし過ぎたる心ならめ」
とて、笑ひたまふ。
「いで、そこにしもぞ、めできこえたまはむ」
などのたまうて、また御返り、
「あかねさす光は空に曇らぬを
などて行幸に目をきらしけむ
なほ、思し立て」
など、絶えず勧めたまふ。
「とてもかうても、まづ御裳着のことをこそは」と思して、
「とてもかうても、まづ御裳着のことをこそは」と思して、その御まうけの御調度の、こまかなるきよらども加へさせたまひ、何くれの儀式を、御心にはいとも思ほさぬことをだに、おのづからよだけくいかめしくなるを、まして、「内の大臣にも、やがてこのついでにや知らせたてまつりてまし」と思し寄れば、いとめでたくなむ。
「年返りて、二月に」と思す。
「年返りて、二月に」と思す。
「女は、聞こえ高く、名隠したまふべきほどならぬも、人の御女とて、籠もりおはするほどは、かならずしも、氏神の御つとめなど、あらはならぬほどなればこそ、年月はまぎれ過ぐしたまへ、この、もし思し寄ることもあらむには、春日の神の御心違ひぬべきも、つひには隠れてやむまじきものから、あぢきなく、わざとがましき後の名まで、うたたあるべし。なほなほしき人の際こそ、今様とては、氏改むることのたはやすきもあれ」など思しめぐらすに、「親子の御契り、絶ゆべきやうなし。同じくは、わが心許してを、知らせたてまつらむ」
など思し定めて、この御腰結には、かの大臣をなむ、御消息聞こえたまうければ、大宮、去年の冬つ方より悩みたまふこと、さらにおこたりたまはねば、かかるに合はせて、便なかるべきよし、聞こえたまへり。
中将の君も、夜昼、三条にぞさぶらひたまひて、心の隙なくものしたまうて、折悪しきを、いかにせましと思す。
「世も、いと定めなし。宮も亡せさせたまはば、御服あるべきを、知らず顔にてものしたまはむ、罪深きこと多からむ。おはする世に、このこと表はしてむ」
と思し取りて、三条の宮に、御訪らひがてら渡りたまふ。
今はまして、忍びやかにふるまひたまへど、行幸に劣らずよそほしく、
今はまして、忍びやかにふるまひたまへど、行幸に劣らずよそほしく、いよいよ光をのみ添へたまふ御容貌などの、この世に見えぬ心地して、めづらしう見たてまつりたまふには、いとど御心地の悩ましさも、取り捨てらるる心地して、起きゐたまへり。御脇息にかかりて、弱げなれど、ものなどいとよく聞こえたまふ。
「けしうはおはしまさざりけるを、なにがしの朝臣の心惑はして、おどろおどろしう嘆ききこえさすめれば、いかやうにものせさせたまふにかとなむ、おぼつかながりきこえさせつる。内裏などにも、ことなるついでなき限りは参らず、朝廷に仕ふる人ともなくて籠もりはべれば、よろづうひうひしう、よだけくなりにてはべり。齢など、これよりまさる人、腰堪へぬまで屈まりありく例、昔も今もはべめれど、あやしくおれおれしき本性に、添ふもの憂さになむはべるべき」
など聞こえたまふ。
「年の積もりの悩みと思うたまへつつ、月ごろになりぬるを、
「年の積もりの悩みと思うたまへつつ、月ごろになりぬるを、今年となりては、頼み少なきやうにおぼえはべれば、今一度、かく見たてまつりきこえさすることもなくてやと、心細く思ひたまへつるを、今日こそ、またすこし延びぬる心地しはべれ。今は惜しみとむべきほどにもはべらず。さべき人びとにも立ち後れ、世の末に残りとまれる類ひを、人の上にて、いと心づきなしと見はべりしかば、出で立ちいそぎをなむ、思ひもよほされはべるに、この中将の、いとあはれにあやしきまで思ひあつかひ、心を騒がいたまふ見はべるになむ、さまざまにかけとめられて、今まで長びきはべる」
と、ただ泣きに泣きて、御声のわななくも、をこがましけれど、さることどもなれば、いとあはれなり。
御物語ども、昔今のとり集め聞こえたまふついでに、
御物語ども、昔今のとり集め聞こえたまふついでに、
「内の大臣は、日隔てず参りたまふことしげからむを、かかるついでに対面のあらば、いかにうれしからむ。いかで聞こえ知らせむと思ふことのはべるを、さるべきついでなくては、対面もありがたければ、おぼつかなくてなむ」
と聞こえたまふ。
「公事のしげきにや、私の心ざしの深からぬにや、
「公事のしげきにや、私の心ざしの深からぬにや、さしもとぶらひものしはべらず。のたまはすべからむことは、何さまのことにかは。中将の恨めしげに思はれたることもはべるを、『初めのことは知らねど、今はけに聞きにくくもてなすにつけて、立ちそめにし名の、取り返さるるものにもあらず、をこがましきやうに、かへりては世人も言ひ漏らすなるを』などものしはべれば、立てたるところ、昔よりいと解けがたき人の本性にて、心得ずなむ見たまふる」
と、この中将の御ことと思してのたまへば、うち笑ひたまひて、
「いふかひなきに、許し捨てたまふこともやと聞きはべりて、ここにさへなむかすめ申すやうありしかど、いと厳しう諌めたまふよしを見はべりし後、何にさまで言をもまぜはべりけむと、人悪う悔い思うたまへてなむ。
よろづのことにつけて、清めといふことはべれば、いかがは、さもとり返しすすいたまはざらむとは思うたまへながら、かう口惜しき濁りの末に、待ちとり深う住むべき水こそ出で来がたかべい世なれ。何ごとにつけても、末になれば、落ちゆくけぢめこそやすくはべめれ。いとほしう聞きたまふる」
など申したまうて、
コンテンツ名 | 源氏物語全講会 第116回 「行幸」より その1 |
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収録日 | 2008年11月8日 |
講師 | 岡野弘彦(國學院大學名誉教授) |
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