源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第165回 「横笛」より その2

御息所(落葉宮の母上)は夕霧に笛を添えて贈り物をする。夕霧は柏木の夢を見、笛に対する執着を感じ、法要を営む。六条院に伺った夕霧を(明石女御の)三の宮、二の宮が取り合い、夕霧は若君が柏木に似ていると感じる。

「深き夜のあはればかりは聞きわけど

「深き夜のあはればかりは聞きわけどことより顔にえやは弾きける」

飽かずをかしきほどに、さるおほどかなるものの音がらに、古き人の心しめて弾き伝へける、同じ調べのものといへど、あはれに心すごきものの、片端を掻き鳴らして止みたまひぬれば、恨めしきまでおぼゆれど、
「好き好きしさを、さまざまにひき出でても御覧ぜられぬるかな。秋の夜更かしはべらむも、昔の咎めやと憚りてなむ、まかではべりぬべかめる。またことさらに心してなむさぶらふべきを、この御琴どもの調べ変へず待たせたまはむや。弾き違ふることもはべりぬべき世なれば、うしろめたくこそ」
など、まほにはあらねど、うち匂はしおきて出でたまふ。

「今宵の御好きには、

「今宵の御好きには、人許しきこえつべくなむありける。そこはかとなきいにしへ語りにのみ紛らはさせたまひて、玉の緒にせむ心地もしはべらぬ、残り多くなむ」
とて、御贈り物に笛を添へてたてまつりたまふ。
「これになむ、まことに古きことも伝はるべく聞きおきはべりしを、かかる蓬生に埋もるるもあはれに見たまふるを、御前駆に競はむ声なむ、よそながらもいぶかしうはべる」
と聞こえたまへば、
「似つかはしからぬ随身にこそははべるべけれ」
とて、見たまふに、これもげに世とともに身に添へてもてあそびつつ、
「みづからも、さらにこれが音の限りは、え吹きとほさず。思はむ人にいかで伝へてしがな」
と、をりをり聞こえごちたまひしを思ひ出でたまふに、今すこしあはれ多く添ひて、試みに吹き鳴らす。盤渉調の半らばかり吹きさして、
「昔を偲ぶ独り言は、さても罪許されはべりけり。これはまばゆくなむ」
とて、出でたまふに、
「露しげきむぐらの宿にいにしへの
秋に変はらぬ虫の声かな」
と、聞こえ出だしたまへり。
「横笛の調べはことに変はらぬを
むなしくなりし音こそ尽きせね」
出でがてにやすらひたまふに、夜もいたく更けにけり。

 

鈴が音の早馬駅家の堤井の水を賜へな妹が直手よ
すずがねの はゆまうまやの つつみゐの みづをたまへな いもがただてよ
和歌の上に流れていく伝統の心のありよう。

 

殿に帰りたまへれば、格子など下ろさせて、

殿に帰りたまへれば、格子など下ろさせて、皆寝たまひにけり。
「この宮に心かけきこえたまひて、かくねむごろがり聞こえたまふぞ」
など、人の聞こえ知らせければ、かやうに夜更かしたまふもなま憎くて、入りたまふをも聞く聞く、寝たるやうにてものしたまふなるべし。

 

「妹と我といるさの山の」

「妹と我といるさの山の」
と、声はいとをかしうて、独りごち歌ひて、
「こは、など、かく鎖し固めたる。あな、埋れや。今宵の月を見ぬ里もありけり」
と、うめきたまふ。格子上げさせたまひて、御簾巻き上げなどしたまひて、端近く臥したまへり。
「かかる夜の月に、心やすく夢見る人は、あるものか。すこし出でたまへ。あな心憂」
など聞こえたまへど、心やましううち思ひて、聞き忍びたまふ。

君たちの、いはけなく寝おびれたるけはひなど、

君たちの、いはけなく寝おびれたるけはひなど、ここかしこにうちして、女房もさし混みて臥したる、人気にぎははしきに、ありつる所のありさま、思ひ合はするに、多く変はりたり。この笛をうち吹きたまひつつ、
「いかに、名残も、眺めたまふらむ。御琴どもは、調べ変はらず遊びたまふらむかし。御息所も、和琴の上手ぞかし」
など、思ひやりて臥したまへり。
「いかなれば、故君、ただおほかたの心ばへは、やむごとなくもてなしきこえながら、いと深きけしきなかりけむ」
と、それにつけても、いといぶかしうおぼゆ。
「見劣りせむこそ、いといとほしかるべけれ。おほかたの世につけても、限りなく聞くことは、かならずさぞあるかし」
など思ふに、わが御仲の、うちけしきばみたる思ひやりもなくて、睦びそめたる年月のほどを数ふるに、あはれに、いとかう押したちておごりならひたまへるも、ことわりにおぼえたまひけり。

すこし寝入りたまへる夢に、

すこし寝入りたまへる夢に、かの衛門督、ただありしさまの袿姿にて、かたはらにゐて、この笛を取りて見る。夢のうちにも、亡き人の、わづらはしう、この声を尋ねて来たる、と思ふに、
「笛竹に吹き寄る風のことならば
末の世長きねに伝へなむ
思ふ方異にはべりき」
と言ふを、問はむと思ふほどに、若君の寝おびれて泣きたまふ御声に、覚めたまひぬ。

この君いたく泣きたまひて、

この君いたく泣きたまひて、つだみなどしたまへば、乳母も起き騷ぎ、上も大殿油近く取り寄せさせたまて、耳挟みして、そそくりつくろひて、抱きてゐたまへり。いとよく肥えて、つぶつぶとをかしげなる胸を開けて、乳などくくめたまふ。稚児もいとうつくしうおはする君なれば、白くをかしげなるに、御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰めたまふ。
男君も寄りおはして、「いかなるぞ」などのたまふ。うちまきし散らしなどして、乱りがはしきに、夢のあはれも紛れぬべし。
「悩ましげにこそ見ゆれ。今めかしき御ありさまのほどにあくがれたまうて、夜深き御月愛でに、格子も上げられたれば、例のもののけの入り来たるなめり」
など、いと若くをかしき顔して、かこちたまへば、うち笑ひて、
「あやしの、もののけのしるべや。まろ格子上げずは、道なくて、げにえ入り来ざらまし。あまたの人の親になりたまふままに、思ひいたり深くものをこそのたまひなりにたれ」
とて、うち見やりたまへるまみの、いと恥づかしげなれば、さすがに物ものたまはで、
「出でたまひね。見苦し」
とて、明らかなる火影を、さすがに恥ぢたまへるさまも憎からず。まことに、この君なづみて、泣きむつかり明かしたまひつ。

大将の君も、夢思し出づるに、

大将の君も、夢思し出づるに、
「この笛のわづらはしくもあるかな。人の心とどめて思へりしものの、行くべき方にもあらず。女の御伝へはかひなきをや。いかが思ひつらむ。この世にて、数に思ひ入れぬことも、かの今はのとぢめに、一念の恨めしきも、もしはあはれとも思ふにまつはれてこそは、長き夜の闇にも惑ふわざななれ。かかればこそは、何ごとにも執はとどめじと思ふ世なれ」
など、思し続けて、愛宕に誦経せさせたまふ。また、かの心寄せの寺にもせさせたまひて、
「この笛をば、わざと人のさるゆゑ深きものにて、引き出でたまへりしを、たちまちに仏の道におもむけむも、尊きこととはいひながら、あへなかるべし」
と思ひて、六条の院に参りたまひぬ。

女御の御方におはしますほどなりけり。

女御の御方におはしますほどなりけり。三の宮、三つばかりにて、中にうつくしくおはするを、こなたにぞまた取り分きておはしまさせたまひける。走り出でたまひて、
「大将こそ、宮抱きたてまつりて、あなたへ率ておはせ」
と、みづからかしこまりて、いとしどけなげにのたまへば、うち笑ひて、
「おはしませ。いかでか御簾の前をば渡りはべらむ。いと軽々ならむ」
とて、抱きたてまつりてゐたまへれば、
「人も見ず。まろ、顔は隠さむ。なほなほ」
とて、御袖してさし隠したまへば、いとうつくしうて、率てたてまつりたまふ。
こなたにも、二の宮の、若君とひとつに混じりて遊びたまふ、うつくしみておはしますなりけり。隅の間のほどに下ろしたてまつりたまふを、二の宮見つけたまひて、
「まろも大将に抱かれむ」
とのたまふを、三の宮、
「あが大将をや」
とて、控へたまへり。院も御覧じて、
「いと乱りがはしき御ありさまどもかな。公の御近き衛りを、私の随身に領ぜむと争ひたまふよ。三の宮こそ、いとさがなくおはすれ。常に兄に競ひ申したまふ」
と、諌めきこえ扱ひたまふ。大将も笑ひて、
「二の宮は、こよなく兄心にところさりきこえたまふ御心深くなむおはしますめる。御年のほどよりは、恐ろしきまで見えさせたまふ」
など聞こえたまふ。うち笑みて、いづれもいとうつくしと思ひきこえさせたまへり。
「見苦しく軽々しき公卿の御座なり。あなたにこそ」
とて、渡りたまはむとするに、宮たちまつはれて、さらに離れたまはず。宮の若君は、宮たちの御列にはあるまじきぞかしと、御心のうちに思せど、なかなかその御心ばへを、母宮の、御心の鬼にや思ひ寄せたまふらむと、これも心の癖に、いとほしう思さるれば、いとらうたきものに思ひかしづききこえたまふ。

大将は、この君を「まだえよくも見ぬかな」と思して、

大将は、この君を「まだえよくも見ぬかな」と思して、御簾の隙よりさし出でたまへるに、花の枝の枯れて落ちたるを取りて、見せたてまつりて、招きたまへば、走りおはしたり。

二藍の直衣の限りを着て、

二藍の直衣の限りを着て、いみじう白う光りうつくしきこと、皇子たちよりもこまかにをかしげにて、つぶつぶときよらなり。なま目とまる心も添ひて見ればにや、眼居など、これは今すこし強うかどあるさままさりたれど、眼尻のとぢめをかしうかをれるけしきなど、いとよくおぼえたまへり。
口つきの、ことさらにはなやかなるさまして、うち笑みたるなど、「わが目のうちつけなるにやあらむ、大殿はかならず思し寄すらむ」と、いよいよ御けしきゆかし。
宮たちは、思ひなしこそ気高けれ、世の常のうつくしき稚児どもと見えたまふに、この君は、いとあてなるものから、さま異にをかしげなるを、見比べたてまつりつつ、
「いで、あはれ。もし疑ふゆゑもまことならば、父大臣の、さばかり世にいみじく思ひほれたまて、
『子と名のり出でくる人だになきこと。形見に見るばかりの名残をだにとどめよかし』
と、泣き焦がれたまふに、聞かせたてまつらざらむ罪得がましさ」など思ふも、「いで、いかでさはあるべきことぞ」
と、なほ心得ず、思ひ寄る方なし。心ばへさへなつかしうあはれにて、睦れ遊びたまへば、いとらうたくおぼゆ。

コンテンツ名 源氏物語全講会 第165回 「横笛」より その2
収録日 2012年4月14日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

平成24年春期講座

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