源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第175回 「夕霧」より その7

冒頭、大野晋編『古典基礎語辞典』を紹介する。大将(夕霧)は少将の君を通して話しをするが、素っ気ない返事に、帰られる。帰途に一条の宮の前を通る。上(雲居雁)は夕霧の態度の変化を嘆く。小少将の君が(落葉)宮の手習いを届ける。

大野晋編『古典基礎語辞典』

・辞書の推薦
大野晋編『古典基礎語辞典』

・辞書を読む折口信夫

例の妻戸のもとに立ち寄りたまて、

例の妻戸のもとに立ち寄りたまて、やがて眺め出だして立ちたまへり。なつかしきほどの直衣に、色こまやかなる御衣の擣目、いとけうらに透きて、影弱りたる夕日の、さすがに何心もなうさし来たるに、まばゆげに、わざとなく扇をさし隠したまへる手つき、「女こそかうはあらまほしけれ、それだにえあらぬを」と、見たてまつる。
もの思ひの慰めにしつべく、笑ましき顔の匂ひにて、少将の君を、取り分きて召し寄す。簀子のほどもなけれど、奥に人や添ひゐたらむとうしろめたくて、えこまやかにも語らひたまはず。
「なほ近くて。な放ちたまひそ。かく山深く分け入る心ざしは、隔て残るべくやは。霧もいと深しや」
とて、わざとも見入れぬさまに、山の方を眺めて、「なほ、なほ」と切にのたまへば、鈍色の几帳を、簾のつまよりすこしおし出でて、裾をひきそばめつつゐたり。大和守の妹なれば、離れたてまつらぬうちに、幼くより生ほし立てたまうければ、衣の色いと濃くて、橡の衣一襲、小袿着たり。

「かく尽きせぬ御ことは、

「かく尽きせぬ御ことは、さるものにて、聞こえなむ方なき御心のつらさを思ひ添ふるに、心魂もあくがれ果てて、見る人ごとに咎められはべれば、今はさらに忍ぶべき方なし」
と、いと多く恨み続けたまふ。かの今はの御文のさまものたまひ出でて、いみじう泣きたまふ。

この人も、ましていみじう泣き入りつつ、

この人も、ましていみじう泣き入りつつ、
「その夜の御返りさへ見えはべらずなりにしを、今は限りの御心に、やがて思し入りて、暗うなりにしほどの空のけしきに、御心地惑ひにけるを、さる弱目に、例の御もののけの引き入れたてまつる、となむ見たまへし。
過ぎにし御ことにも、ほとほと御心惑ひぬべかりし折々多くはべりしを、宮の同じさまに沈みたまうしを、こしらへきこえむの御心強さになむ、やうやうものおぼえたまうし。この御嘆きをば、御前には、ただわれかの御けしきにて、あきれて暮らさせたまうし」
など、とめがたげにうち嘆きつつ、はかばかしうもあらず聞こゆ。
「そよや。そもあまりにおぼめかしう、いふかひなき御心なり。今は、かたじけなくとも、誰をかはよるべに思ひきこえたまはむ。御山住みも、いと深き峰に、世の中を思し絶えたる雲の中なめれば、聞こえ通ひたまはむこと難し。
いとかく心憂き御けしき、聞こえ知らせたまへ。よろづのこと、さるべきにこそ。世にあり経じと思すとも、従はぬ世なり。まづは、かかる御別れの、御心にかなはば、あるべきことかは」
など、よろづに多くのたまへど、聞こゆべきこともなくて、うち嘆きつつゐたり。鹿のいといたく鳴くを、「われ劣らめや」とて、

「里遠み小野の篠原わけて来て我も鹿こそ声も惜しまね」

とのたまへば、

「藤衣露けき秋の山人は鹿の鳴く音に音をぞ添へつる」

よからねど、折からに、忍びやかなる声づかひなどを、よろしう聞きなしたまへり。

・恋歌のやりとり、男の歌・女の歌。

 

御消息とかう聞こえたまへど、

御消息とかう聞こえたまへど、
「今は、かくあさましき夢の世を、すこしも思ひ覚ます折あらばなむ、絶えぬ御とぶらひも聞こえやるべき」
とのみ、すくよかに言はせたまふ。「いみじういふかひなき御心なりけり」と、嘆きつつ帰りたまふ。

道すがらも、あはれなる空を眺めて、

道すがらも、あはれなる空を眺めて、十三日の月のいとはなやかにさし出でぬれば、小倉の山もたどるまじうおはするに、一条の宮は道なりけり。
いとどうちあばれて、未申の方の崩れたるを見入るれば、はるばると下ろし籠めて、人影も見えず。月のみ遣水の面をあらはに澄みましたるに、大納言、ここにて遊びなどしたまうし折々を、思ひ出でたまふ。

「見し人の影澄み果てぬ池水にひとり宿守る秋の夜の月」

と独りごちつつ、殿におはしても、月を見つつ、心は空にあくがれたまへり。
「さも見苦しう。あらざりし御癖かな」
と、御達も憎みあへり。

・太陰暦から太陽暦に
旧暦の感覚を自分の気持ちから失わないようにしている
・『伊勢物語』から「鬼一口」

上は、まめやかに心憂く、

上は、まめやかに心憂く、
「あくがれたちぬる御心なめり。もとよりさる方にならひたまへる六条の院の人びとを、ともすればめでたきためしにひき出でつつ、心よからずあいだちなきものに思ひたまへる、わりなしや。我も、昔よりしかならひなましかば、人目も馴れて、なかなか過ごしてまし。世のためしにしつべき御心ばへと、親兄弟よりはじめたてまつり、めやすきあえものにしたまへるを、ありありては、末に恥がましきことやあらむ」
など、いといたう嘆いたまへり。

夜明け方近く、

夜明け方近く、かたみにうち出でたまふことなくて、背き背きに嘆き明かして、朝霧の晴れ間も待たず、例の、文をぞ急ぎ書きたまふ。いと心づきなしと思せど、ありしやうにも奪ひたまはず。いとこまやかに書きて、うち置きてうそぶきたまふ。忍びたまへど、漏りて聞きつけらる。

「いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の夢覚めてとか言ひしひとこと

上より落つる」
とや書いたまひつらむ、おし包みて、名残も、「いかでよからむ」など口ずさびたまへり。人召して賜ひつ。「御返り事をだに見つけてしがな。なほ、いかなることぞ」と、けしき見まほしう思す。

いかにしていかによからん 小野山の上よりおつる音無しの滝

日たけてぞ持て参れる。

日たけてぞ持て参れる。紫のこまやかなる紙すくよかにて、小少将ぞ、例の聞こえたる。ただ同じさまに、かひなきよしを書きて、
「いとほしさに、かのありつる御文に、手習ひすさびたまへるを盗みたる」
とて、中にひき破りて入れたる、「目には見たまうてけり」と、思すばかりのうれしさぞ、いと人悪ろかりける。そこはかとなく書きたまへるを、見続けたまへれば、

「朝夕に泣く音を立つる小野山は絶えぬ涙や音無の滝」

とや、とりなすべからむ、古言など、もの思はしげに書き乱りたまへる、御手なども見所あり。
「人の上などにて、かやうの好き心思ひ焦らるるは、もどかしう、うつし心ならぬことに見聞きしかど、身のことにては、げにいと堪へがたかるべきわざなりけり。あやしや。など、かうしも思ふべき心焦られぞ」
と思ひ返したまへど、えしもかなはず。

コンテンツ名 源氏物語全講会 第175回 「夕霧」より その7
収録日 2012年12月1日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

平成24年秋期講座

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