源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第112回 「常夏」より その3

(内)大臣は北の対の今姫君(近江の君)の面倒をみるよう、女御の君(弘徽殿の女御)に申し上げる。内大臣は、簾を高く巻き上げ若女房の五節の君と双六をしていた近江の君と話す。近江の君と弘徽殿女御との歌のやりとり。最後に折口信夫に触れ、「常夏」は終わる。

大臣、この北の対の今姫君を、  

 大臣、この北の対の今姫君を、
 「いかにせむ。さかしらに迎へ率て来て。人かく誹るとて、返し送らむも、いと軽々しく、もの狂ほしきやうなり。かくて籠めおきたれば、まことにかしづくべき心あるかと、人の言ひなすなるもねたし。女御の御方などに交じらはせて、さるをこのものにしないてむ。人のいとかたはなるものに言ひおとすなる容貌はた、いとさ言ふばかりにやはある」
 など思して、女御の君に、
 「かの人参らせむ。見苦しからむことなどは、老いしらへる女房などして、つつまず言ひ教へさせたまひて御覧ぜよ。若き人びとの言種には、な笑はせさせたまひそ。うたてあはつけきやうなり」
 と、笑ひつつ聞こえたまふ。
 「などか、いとさことのほかにははべらむ。中将などの、いと二なく思ひはべりけむかね言に足らずといふばかりにこそははべらめ。かくのたまひ騒ぐを、はしたなう思はるるにも、かたへはかかやかしきにや」
 と、いと恥づかしげにて聞こえさせたまふ。この御ありさまは、こまかにをかしげさはなくて、いとあてに澄みたるものの、なつかしきさま添ひて、おもしろき梅の花の開けさしたる朝ぼらけおぼえて、残り多かりげにほほ笑みたまへるぞ、人に異なりける、と見たてまつりたまふ。
 「中将の、いとさ言へど、心若きたどり少なさに」
 など申したまふも、いとほしげなる人の御おぼえかな。

やがて、この御方のたよりに、たたずみおはして、のぞきたまへば、

 やがて、この御方のたよりに、たたずみおはして、のぞきたまへば、簾高くおし張りて、五節の君とて、されたる若人のあると、双六をぞ打ちたまふ。手をいと切におしもみて、
 「せうさい、せうさい」
 とこふ声ぞ、いと舌疾きや。「あな、うたて」と思して、御供の人の前駆追ふをも、手かき制したまうて、なほ、妻戸の細目なるより、障子の開きあひたるを見入れたまふ。
 この従姉妹も、はた、けしきはやれる、
 「御返しや、御返しや」
 と、筒をひねりて、とみに打ち出でず。中に思ひはありやすらむ、いとあさへたるさまどもしたり。
 容貌はひぢぢかに、愛敬づきたるさまして、髪うるはしく、罪軽げなるを、額のいと近やかなると、声のあはつけさとにそこなはれたるなめり。取りたててよしとはなけれど、異人とあらがふべくもあらず、鏡に思ひあはせられたまふに、いと宿世心づきなし。

「かくてものしたまふは、つきなくうひうひしくなどやある。

 「かくてものしたまふは、つきなくうひうひしくなどやある。ことしげくのみありて、訪らひまうでずや」
 とのたまへば、例の、いと舌疾にて、
 「かくてさぶらふは、何のもの思ひかはべらむ。年ごろ、おぼつかなく、ゆかしく思ひきこえさせし御顔、常にえ見たてまつらぬばかりこそ、手打たぬ心地しはべれ」
 と聞こえたまふ。
 「げに、身に近く使ふ人もをさをさなきに、さやうにても見ならしたてまつらむと、かねては思ひしかど、えさしもあるまじきわざなりけり。なべての仕うまつり人こそ、とあるもかかるも、おのづから立ち交らひて、人の耳をも目をも、かならずしもとどめぬものなれば、心やすかべかめれ。それだに、その人の女、かの人の子と知らるる際になれば、親兄弟の面伏せなる類ひ多かめり。まして」
 とのたまひさしつる、御けしきの恥づかしきも知らず、
 「何か、そは、ことことしく思ひたまひて交らひはべらばこそ、所狭からめ。大御大壷取りにも、仕うまつりなむ」
 と聞こえたまへば、え念じたまはで、うち笑ひたまひて、
 「似つかはしからぬ役ななり。かくたまさかに会へる親の孝せむの心あらば、このもののたまふ声を、すこしのどめて聞かせたまへ。さらば、命も延びなむかし」
 と、をこめいたまへる大臣にて、ほほ笑みてのたまふ。

「舌の本性にこそははべらめ。幼くはべりし時だに、

 「舌の本性にこそははべらめ。幼くはべりし時だに、故母の常に苦しがり教へはべりし。妙法寺の別当大徳の、産屋にはべりける、あえものとなむ嘆きはべりたうびし。いかでこの舌疾さやめはべらむ」
 と思ひ騒ぎたるも、いと孝養の心深く、あはれなりと見たまふ。
 「その、気近く入り立ちたりけむ大徳こそは、あぢきなかりけれ。ただその罪の報いななり。唖、言吃とぞ、大乗誹りたる罪にも、数へたるかし」
 とのたまひて、「子ながら恥づかしくおはする御さまに、見えたてまつらむこそ恥づかしけれ。いかに定めて、かくあやしきけはひも尋ねず迎へ寄せけむ」と思し、「人びともあまた見つぎ、言ひ散らさむこと」と、思ひ返したまふものから、
 「女御里にものしたまふ時々、渡り参りて、人のありさまなども見ならひたまへかし。ことなることなき人も、おのづから人に交じらひ、さる方になれば、さてもありぬかし。さる心して、見えたてまつりたまひなむや」
 とのたまへば、
 「いとうれしきことにこそはべるなれ。ただ、いかでもいかでも、御方々に数まへしろしめされむことをなむ、寝ても覚めても、年ごろ何ごとを思ひたまへつるにもあらず。御許しだにはべらば、水を汲みいただきても、仕うまつりなむ」
 と、いとよげに、今すこしさへづれば、いふかひなしと思して、
 「いとしか、おりたちて薪拾ひたまはずとも、参りたまひなむ。ただかのあえものにしけむ法の師だに遠くは」
 と、をこごとにのたまひなすをも知らず、同じき大臣と聞こゆるなかにも、いときよげにものものしく、はなやかなるさまして、おぼろけの人見えにくき御けしきをも見知らず、
 「さて、いつか女御殿には参りはべらむずる」
 と聞こゆれば、
 「よろしき日などやいふべからむ。よし、ことことしくは何かは。さ思はれば、今日にても」
 とのたまひ捨てて渡りたまひぬ。

よき四位五位たちの、いつききこえて、うち身じろきたまふにも、

 よき四位五位たちの、いつききこえて、うち身じろきたまふにも、いといかめしき御勢ひなるを見送りきこえて、
 「いで、あな、めでたのわが親や。かかりける胤ながら、あやしき小家に生ひ出でけること」
 とのたまふ。五節、
 「あまりことことしく、恥づかしげにぞおはする。よろしき親の、思ひかしづかむにぞ、尋ね出でられたまはまし」
 と言ふも、わりなし。
 「例の、君の、人の言ふこと破りたまひて、めざまし。今は、ひとつ口に言葉な交ぜられそ。あるやうあるべき身にこそあめれ」
 と、腹立ちたまふ顔やう、気近く、愛敬づきて、うちそぼれたるは、さる方にをかしく罪許されたり。
 ただ、いと鄙び、あやしき下人の中に生ひ出でたまへれば、もの言ふさまも知らず。ことなるゆゑなき言葉をも、声のどやかに押ししづめて言ひ出だしたるは、打ち聞き、耳異におぼえ、をかしからぬ歌語りをするも、声づかひつきづきしくて、残り思はせ、本末惜しみたるさまにてうち誦じたるは、深き筋思ひ得ぬほどの打ち聞きには、をかしかなりと、耳もとまるかし。
 いと心深くよしあることを言ひゐたりとも、よろしき心地あらむと聞こゆべくもあらず、あはつけき声ざまにのたまひ出づる言葉こはごはしく、言葉たみて、わがままに誇りならひたる乳母の懐にならひたるさまに、もてなしいとあやしきに、やつるるなりけり。
 いといふかひなくはあらず、三十文字あまり、本末あはぬ歌、口疾くうち続けなどしたまふ。

「さて、女御殿に参れとのたまひつるを、しぶしぶなるさまならば、

 「さて、女御殿に参れとのたまひつるを、しぶしぶなるさまならば、ものしくもこそ思せ。夜さりまうでむ。大臣の君、天下に思すとも、この御方々のすげなくしたまはむには、殿のうちには立てりなむはや」
 とのたまふ。御おぼえのほど、いと軽らかなりや。
 まづ御文たてまつりたまふ。
 「葦垣のま近きほどにはさぶらひながら、今まで影踏むばかりのしるしもはべらぬは、勿来の関をや据ゑさせたまへらむとなむ。知らねども、武蔵野といへばかしこけれども。あなかしこや、あなかしこや」
 と、点がちにて、裏には、
 「まことや、暮にも参り来むと思うたまへ立つは、厭ふにはゆるにや。いでや、いでや、あやしきは水無川にを」
 とて、また端に、かくぞ、

 「草若み常陸の浦のいかが崎
  いかであひ見む田子の浦波
 大川水の」

 と、青き色紙一重ねに、いと草がちに、いかれる手の、その筋とも見えず、ただよひたる書きざまも下長に、わりなくゆゑばめり。行のほど、端ざまに筋交ひて、倒れぬべく見ゆるを、うち笑みつつ見て、さすがにいと細く小さく巻き結びて、撫子の花につけたり。
 樋洗童しも、いと馴れてきよげなる、今参りなりけり。

女御の御方の台盤所に寄りて、「これ、参らせたまへ」

女御の御方の台盤所に寄りて、
 「これ、参らせたまへ」
 と言ふ。下仕へ見知りて、
 「北の対にさぶらふ童なりけり」
 とて、御文取り入る。大輔の君といふ、持て参りて、引き解きて御覧ぜさす。
 女御、ほほ笑みてうち置かせたまへるを、中納言の君といふ、近くゐて、そばそば見けり。
 「いと今めかしき御文のけしきにもはべめるかな」
 と、ゆかしげに思ひたれば、
 「草の文字は、え見知らねばにやあらむ、本末なくも見ゆるかな」
 とて、賜へり。
 「返りこと、かくゆゑゆゑしく書かずは、悪ろしとや思ひおとされむ。やがて書きたまへ」
 と、譲りたまふ。もて出でてこそあらね、若き人は、ものをかしくて、皆うち笑ひぬ。御返り乞へば、
 「をかしきことの筋にのみまつはれてはべめれば、聞こえさせにくくこそ。宣旨書きめきては、いとほしからむ」
 とて、ただ、御文めきて書く。

 「近きしるしなき、おぼつかなさは、恨めしく、
  常陸なる駿河の海の須磨の浦に
  波立ち出でよ筥崎の松」

 と書きて、読みきこゆれば、
 「あな、うたて。まことにみづからのにもこそ言ひなせ」
 と、かたはらいたげに思したれど、
 「それは聞かむ人わきまへはべりなむ」
 とて、おし包みて出だしつ。
 御方見て、
 「をかしの御口つきや。待つとのたまへるを」
 とて、いとあまえたる薫物の香を、返す返す薫きしめゐたまへり。紅といふもの、いと赤らかにかいつけて、髪けづりつくろひたまへる、さる方ににぎははしく、愛敬づきたり。御対面のほど、さし過ぐしたることもあらむかし。

ウル源氏物語

・ウル源氏物語について
・「棚機女」について
・「天若日子物語」
・ギリシャ神話 「オデッセウス」について折口信夫が書いた論文のこと
・『万葉集』における七夕歌

コンテンツ名 源氏物語全講会 第112回 「常夏」より その3
収録日 2008年7月12日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

平成20年春期講座

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