源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第158回 「柏木」より その1

折口信夫と『源氏物語』に触れ、柏木の卷に。衛門督の君(柏木)は病床で思いを巡らし、女三の宮に手紙を書く。しぶしぶ書いた返事を小侍従が届ける。父の大臣は葛城山の行者を呼び寄せる。

折口信夫と『源氏』の所縁(ゆかり)・・・続「折口信夫と『若菜の巻』」

・折口信夫と光源氏の晩年

・折口信夫と弟子

衛門督の君、かくのみ悩みわたりたまふこと、

衛門督の君、かくのみ悩みわたりたまふこと、なほおこたらで、年も返りぬ。大臣、北の方、思し嘆くさまを見たてまつるに、
「しひてかけ離れなむ命、かひなく、罪重かるべきことを思ふ、心は心として、また、あながちにこの世に離れがたく、惜しみ留めまほしき身かは。いはけなかりしほどより、思ふ心異にて、何ごとをも、人に今一際まさらむと、公私のことに触れて、なのめならず思ひ上りしかど、その心叶ひがたかりけり」
と、一つ二つの節ごとに、身を思ひ落としてしこなた、なべての世の中すさまじう思ひなりて、後の世の行なひに本意深く進みにしを、親たちの御恨みを思ひて、野山にもあくがれむ道の重きほだしなるべくおぼえしかば、とざまかうざまに紛らはしつつ過ぐしつるを、つひに、
「なほ、世に立ちまふべくもおぼえぬもの思ひの、一方ならず身に添ひにたるは、我より他に誰かはつらき、心づからもてそこなひつるにこそあめれ」
と思ふに、恨むべき人もなし。
「神、仏をもかこたむ方なきは、これ皆さるべきにこそはあらめ。誰も千年の松ならぬ世は、つひに止まるべきにもあらぬを、かく、人にも、すこしうちしのばれぬべきほどにて、なげのあはれをもかけたまふ人あらむをこそは、一つ思ひに燃えぬるしるしにはせめ。
せめてながらへば、おのづからあるまじき名をも立ち、我も人も、やすからぬ乱れ出で来るやうもあらむよりは、なめしと、心置いたまふらむあたりにも、さりとも思し許いてむかし。よろづのこと、今はのとぢめには、皆消えぬべきわざなり。また、異ざまの過ちしなければ、年ごろものの折ふしごとには、まつはしならひたまひにし方のあはれも出で来なむ」
など、つれづれに思ひ続くるも、うち返し、いとあぢきなし。

「などかく、ほどもなくしなしつる身ならむ」と、

「などかく、ほどもなくしなしつる身ならむ」と、かきくらし思ひ乱れて、枕も浮きぬばかり、人やりならず流し添へつつ、いささか隙ありとて、人びと立ち去りたまへるほどに、かしこに御文たてまつれたまふ。

「今は限りになりにてはべるありさまは、

「今は限りになりにてはべるありさまは、おのづから聞こしめすやうもはべらむを、いかがなりぬるとだに、御耳とどめさせたまはぬも、ことわりなれど、いと憂くもはべるかな」
など聞こゆるに、いみじうわななけば、思ふことも皆書きさして、
「今はとて燃えむ煙もむすぼほれ
絶えぬ思ひのなほや残らむ
あはれとだにのたまはせよ。心のどめて、人やりならぬ闇に惑はむ道の光にもしはべらむ」
と聞こえたまふ。

侍従にも、こりずまに、

侍従にも、こりずまに、あはれなることどもを言ひおこせたまへり。
「みづからも、今一度言ふべきことなむ」
とのたまへれば、この人も、童より、さるたよりに参り通ひつつ、見たてまつり馴れたる人なれば、おほけなき心こそうたておぼえたまひつれ、今はと聞くは、いと悲しうて、泣く泣く、
「なほ、この御返り。まことにこれをとぢめにもこそはべれ」
と聞こゆれば、
「われも、今日か明日かの心地して、もの心細ければ、おほかたのあはればかりは思ひ知らるれど、いと心憂きことと思ひ懲りにしかば、いみじうなむつつましき」
とて、さらに書いたまはず。

御心本性の、

御心本性の、強くづしやかなるにはあらねど、恥づかしげなる人の御けしきの、折々にまほならぬが、いと恐ろしうわびしきなるべし。されど、御硯などまかなひて責めきこゆれば、しぶしぶに書いたまふ。取りて、忍びて宵の紛れに、かしこに参りぬ。

大臣、かしこき行なひ人、

大臣、かしこき行なひ人、葛城山より請じ出でたる、待ち受けたまひて、加持参らせむとしたまふ。御修法、読経なども、いとおどろおどろしう騷ぎたり。人の申すままに、さまざま聖だつ験者などの、をさをさ世にも聞こえず、深き山に籠もりたるなどをも、弟の君たちを遣はしつつ、尋ね召すに、けにくく心づきなき山伏どもなども、いと多く参る。患ひたまふさまの、そこはかとなくものを心細く思ひて、音をのみ、時々泣きたまふ。
陰陽師なども、多くは女の霊とのみ占ひ申しければ、さることもやと.思せど、さらにもののけの現はれ出で来るもなきに、思ほしわづらひて、かかる隈々をも尋ねたまふなりけり。
この聖も、丈高やかに、まぶしつべたましくて、荒らかにおどろおどろしく陀羅尼読むを、
「いで、あな憎や。罪の深き身にやあらむ、陀羅尼の声高きは、いと気恐ろしくて、いよいよ死ぬべくこそおぼゆれ」
とて、やをらすべり出でて、この侍従と語らひたまふ。

 

・大和盆地で霊力、法力を持ったものたち
・連歌師と『源氏物語』
・「万葉集は写実的だから力があるんだ」
アララギに引っ張り込まれた釈迢空の苦しさ
・『源氏物語』で引かれている歌と地の言葉(詞)の響き合い
・「短歌」12月号に掲載されている鈴木日出男氏との対談
・『源氏物語』が与えた影響

 

大臣は、さも知りたまはず、

大臣は、さも知りたまはず、うち休みたると、人びとして申させたまへば、さ思して、忍びやかにこの聖と物語したまふ。おとなびたまへれど、なほはなやぎたるところつきて、もの笑ひしたまふ大臣の、かかる者どもと向ひゐて、この患ひそめたまひしありさま、何ともなくうちたゆみつつ、重りたまへること、
「まことに、このもののけ、現はるべう念じたまへ」
など、こまやかに語らひたまふも、いとあはれなり。

「かれ聞きたまへ。何の罪とも思し寄らぬに、

「かれ聞きたまへ。何の罪とも思し寄らぬに、占ひよりけむ女の霊こそ、まことにさる御執の身に添ひたるならば、厭はしき身をひきかへ、やむごとなくこそなりぬべけれ。
さてもおほけなき心ありて、さるまじき過ちを引き出でて、人の御名をも立て、身をも顧みぬたぐひ、昔の世にもなくやはありける、と思ひ直すに、なほけはひわづらはしう、かの御心に、かかる咎を知られたてまつりて、世にながらへむことも、いとまばゆくおぼゆるは、げに異なる御光なるべし。
深き過ちもなきに、見合はせたてまつりし夕べのほどより、やがてかき乱り、惑ひそめにし魂の、身にも返らずなりにしを、かの院のうちにあくがれありかば、結びとどめたまへよ」
など、いと弱げに、殻のやうなるさまして、泣きみ笑ひみ語らひたまふ。

コンテンツ名 源氏物語全講会 第158回 「柏木」より その1
収録日 2011年12月3日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

平成23年秋期講座

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