第145回 「若菜下」より その3
源氏は住吉社頭の盛儀を催す。(明石の)尼君と歌を贈答し、紫の上、女御の君(明石の女御)、中務の君(紫の上の侍女)も唱和する。朱雀院は女三の宮との対面を希望する。講義の途中で、啄木と迢空について解説する。
講師:岡野弘彦
若菜下の見所
・近況報告
・本日の講義部分の概要、光源氏の大きな力を感じさせるところ
十月中の十日なれば、
十月中の十日なれば、神の斎垣にはふ葛も色変はりて、松の下紅葉など、音にのみ秋を聞かぬ顔なり。ことことしき高麗、唐土の楽よりも、東遊の耳馴れたるは、なつかしくおもしろく、波風の声に響きあひて、さる木高き松風に吹き立てたる笛の音も、ほかにて聞く調べには変はりて身にしみ、御琴に打ち合はせたる拍子も、鼓を離れて調へとりたるかた、おどろおどろしからぬも、なまめかしくすごうおもしろく、所からは、まして聞こえけり。
山藍に摺れる竹の節は、松の緑に見えまがひ、插頭の色々は、秋の草に異なるけぢめ分かれで、何ごとにも目のみまがひいろふ。
「求子」果つる末に、若やかなる上達部は、肩ぬぎて下りたまふ。匂ひもなく黒き袍に、蘇芳襲の、葡萄染の袖を、にはかに引きほころばしたるに、紅深き衵の袂の、うちしぐれたるにけしきばかり濡れたる、松原をば忘れて、紅葉の散るに思ひわたさる。
見るかひ多かる姿どもに、いと白く枯れたる荻を、高やかにかざして、ただ一返り舞ひて入りぬるは、いとおもしろく飽かずぞありける。
大殿、昔のこと思し出でられ、
大殿、昔のこと思し出でられ、中ごろ沈みたまひし世のありさまも、目の前のやうに思さるるに、その世のこと、うち乱れ語りたまふべき人もなければ、致仕の大臣をぞ、恋しく思ひきこえたまひける。
入りたまひて、
入りたまひて、二の車に忍びて、
「誰れかまた心を知りて住吉の
神代を経たる松にこと問ふ」
御畳紙に書きたまへり。尼君うちしほたる。かかる世を見るにつけても、かの浦にて、今はと別れたまひしほど、女御の君のおはせしありさまなど思ひ出づるも、いとかたじけなかりける身の宿世のほどを思ふ。世を背きたまひし人も恋しく、さまざまにもの悲しきを、かつはゆゆしと言忌して、
「住の江をいけるかひある渚とは
年経る尼も今日や知るらむ」
遅くは便なからむと、ただうち思ひけるままなりけり。
「昔こそまづ忘られね住吉の
神のしるしを見るにつけても」
と独りごちけり。
・言葉の力
言葉は言った通りのことが、そこに現実に起こることを予期して発する。殊に歌の形で発する言葉は、日常の言葉よりも何倍も強い力を発する。それだからこそ「歌開始」の儀式がある。
葛城の一言主の神様
和歌の形、和歌の調べ、和歌の力
・住吉の神は、海の航海安全の神でもあり歌の神でもある。
・神に申し上げる言葉は、格別の言葉で、祝詞として固定していく。
その祝詞の理想的な形は万葉集の柿本人麻呂の長歌の形、もっと凝縮すれば、和歌の形。
・啄木と迢空
折口は、心惹かれた歌には印(合点)をつけることが、割合あった。
今から100年前に石川啄木の『一握の砂』が出版されたが、『一握の砂』につけた、合点の数は多かった。
『一握の砂』の歌から
高山のいただきに登り
なにがなしに帽子をふりて
下り来しかな
この歌に対する折口の批評、「啄木の歌の、新しい領域の発見、新しい表現の発見はこういう歌にあるのだ」。
・良い歌だと思ったら暗記する癖をつけることが大事だが、添削してしまい、原典と違ってしまうことがある。
・啄木、迢空は、歌の調べを大事にして表記を仕分ける。
点丸(句読点)、字開け、多行分かち書き。
点丸をつけることで、作者の意図どおり読者が読んでくれる。
夜一夜遊び明かしたまふ。
夜一夜遊び明かしたまふ。二十日の月はるかに澄みて、海の面おもしろく見えわたるに、霜のいとこちたく置きて、松原も色まがひて、よろづのことそぞろ寒く、おもしろさもあはれさも立ち添ひたり。
対の上、常の垣根のうちながら、時々につけてこそ、興ある朝夕の遊びに、耳古り目馴れたまひけれ、御門より外の物見、をさをさしたまはず、ましてかく都のほかのありきは、まだ慣らひたまはねば、珍しくをかしく思さる。
「住の江の松に夜深く置く霜は
神の掛けたる木綿鬘かも」
篁の朝臣の、「比良の山さへ」と言ひける雪の朝を思しやれば、祭の心うけたまふしるしにやと、いよいよ頼もしくなむ。女御の君、
「神人の手に取りもたる榊葉に
木綿かけ添ふる深き夜の霜」
中務の君、
「祝子が木綿うちまがひ置く霜は
げにいちじるき神のしるしか」
次々数知らず多かりけるを、何せむにかは聞きおかむ。かかるをりふしの歌は、例の上手めきたまふ男たちも、なかなか出で消えして、松の千歳より離れて、今めかしきことなければ、うるさくてなむ。
ひもろぎ
神が宿るシンボルとして考えて立てる「神籬」(ひもろぎ)は、現在では榊をはじめとした常緑樹だと思われているが、獣の肉や肝を干したものを「胙」(ひもろぎ)とした文書もある。古代人は、魂が脳に宿るという考え方もあったが、肝に宿るとしたのが一般的だった。(参考 折口信夫「神道概論」)
ほのぼのと明けゆくに、
ほのぼのと明けゆくに、霜はいよいよ深くて、本末もたどたどしきまで、酔ひ過ぎにたる神楽おもてどもの、おのが顔をば知らで、おもしろきことに心はしみて、庭燎も影しめりたるに、なほ、「万歳、万歳」と、榊葉を取り返しつつ、祝ひきこゆる御世の末、思ひやるぞいとどしきや。
よろづのこと飽かずおもしろきままに、千夜を一夜になさまほしき夜の、何にもあらで明けぬれば、返る波にきほふも口惜しく、若き人びと思ふ。
松原に、はるばると立て続けたる御車どもの、
松原に、はるばると立て続けたる御車どもの、風にうちなびく下簾の隙々も、常磐の蔭に、花の錦を引き加へたると見ゆるに、袍の色々けぢめおきて、をかしき懸盤取り続きて、もの参りわたすをぞ、下人などは目につきて、めでたしとは思へる。
尼君の御前にも、浅香の折敷に、青鈍の表折りて、精進物を参るとて、「めざましき女の宿世かな」と、おのがじしはしりうごちけり。
詣でたまひし道は、
詣でたまひし道は、ことことしくて、わづらはしき神宝、さまざまに所狭げなりしを、帰さはよろづの逍遥を尽くしたまふ。言ひ続くるもうるさく、むつかしきことどもなれば。
かかる御ありさまをも、かの入道の、聞かず見ぬ世にかけ離れたうべるのみなむ、飽かざりける。難きことなりかし、交じらはましも見苦しくや。世の中の人、これを例にて、心高くなりぬべきころなめり。よろづのことにつけて、めであさみ、世の言種にて、「明石の尼君」とぞ、幸ひ人に言ひける。かの致仕の大殿の近江の君は、双六打つ時の言葉にも、「明石の尼君、明石の尼君」とぞ、賽は乞ひける。
入道の帝は、
入道の帝は、御行なひをいみじくしたまひて、内裏の御ことをも聞き入れたまはず。春秋の行幸になむ、昔思ひ出でられたまふこともまじりける。姫宮の御こと をのみぞ、なほえ思し放たで、この院をば、なほおほかたの御後見に思ひきこえたまひて、うちうちの御心寄せあるべく奏せさせたまふ。二品になりたまひて、 御封などまさる。いよいよはなやかに御勢ひ添ふ。
対の上、かく年月に添へて、
対の上、かく年月に添へて、かたがたにまさりたまふ御おぼえに、
「わが身はただ一所の御もてなしに、人には劣らねど、あまり年積もりなば、その御心ばへもつひに衰へなむ。さらむ世を見果てぬさきに、心と背きにしがな」
と、たゆみなく思しわたれど、さかしきやうにや思さむとつつまれて、はかばかしくもえ聞こえたまはず。内裏の帝さへ、御心寄せことに聞こえたまへば、おろかに聞かれたてまつらむもいとほしくて、渡りたまふこと、やうやう等しきやうになりゆく。
さるべきこと、ことわりとは思ひながら、さればよとのみ、やすからず思されけれど、なほつれなく同じさまにて過ぐしたまふ。春宮の御さしつぎの女一の宮を、こなたに取り分きてかしづきたてまつりたまふ。その御扱ひになむ、つれづれなる御夜がれのほども慰めたまひける。いづれも分かず、うつくしくかなしと思ひきこえたまへり。
夏の御方は、
夏の御方は、かくとりどりなる御孫扱ひをうらやみて、大将の君の典侍腹の君を、切に迎へてぞかしづきたまふ。いとをかしげにて、心ばへも、ほどよりはされおよすけたれば、大殿の君もらうたがりたまふ。少なき御嗣と思ししかど、末に広ごりて、こなたかなたいと多くなり添ひたまふを、今はただ、これをうつくしみ扱ひたまひてぞ、つれづれも慰めたまひける。
右の大殿の参り仕うまつりたまふこと、
右の大殿の参り仕うまつりたまふこと、いにしへよりもまさりて親しく、今は北の方もおとなび果てて、かの昔のかけかけしき筋思ひ離れたまふにや、さるべき折も渡りまうでたまふ。対の上にも御対面ありて、あらまほしく聞こえ交はしたまひけり。
姫宮のみぞ、同じさまに若くおほどきておはします。女御の君は、今は公ざまに思ひ放ちきこえたまひて、この宮をばいと心苦しく、幼からむ御女のやうに、思ひはぐくみたてまつりたまふ。
朱雀院の、 「今はむげに世近くなりぬる心地して、
朱雀院の、
「今はむげに世近くなりぬる心地して、もの心細きを、さらにこの世のこと顧みじと思ひ捨つれど、対面なむ今一度あらまほしきを、もし恨み残りもこそすれ、ことことしきさまならで渡りたまふべく」、聞こえたまひければ、大殿も、
「げに、さるべきことなり。かかる御けしきなからむにてだに、進み参りたまふべきを。まして、かう待ちきこえたまひけるが、心苦しきこと」
と、参りたまふべきこと思しまうく。
「ついでなく、すさまじきさまにてやは、
「ついでなく、すさまじきさまにてやは、はひ渡りたまふべき。何わざをしてか、御覧ぜさせたまふべき」
と、思しめぐらす。
「このたび足りたまはむ年、若菜など調じてや」と、思して、さまざまの御法服のこと、斎の御まうけのしつらひ、何くれとさまことに変はれることどもなれば、人の御心しつらひども入りつつ、思しめぐらす。
コンテンツ名 | 源氏物語全講会 第145回 「若菜下」より その3 |
---|---|
収録日 | 2011年1月15日 |
講師 | 岡野弘彦(國學院大學名誉教授) |
平成22年秋期講座 |
さまざまな分野に精通し、経験、知識豊富な講師の方々をご紹介します。