源氏物語全講会 | 岡野弘彦

第153回 「若菜下」より その11

折口信夫が参加した座談会を紹介し、本文に。息を吹き返した紫の上は仏の五戒だけを受け、小康状態を保っているが、源氏は六条院には行かれない。柏木は女三の宮に会いに来る。六条院で源氏は女三の宮の懐妊を聞き、不思議に思う。

紫式部という大作家

・「紫式部の表現力というのは、ものすごいものだと思います。」

・三田文学での座談会

池田弥三郎:若い頃の藤壺との密通事件が、晩年の源氏の上に因果めいた形で報いてくるとは、考えられませんか。
折口信夫:いや、そんな風には自分は考えない。物語の上にも出てこない。

・「人間悪の創造」(折口信夫)

コナン・ドイルを讃えている。

(参考)

「人間悪の創造」は青空文庫で読むことができます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/card42212.html

・「日本人のもってきた文化伝統はかなり深いものである。そのことに僕たちは、その子孫としての誇りをもって良いだろうし、同時に責任を感じて良いだろう、と思います。」

・体が、心が、ぞくぞくしてくる、折口教授の講義

河童の話をすると、教室がふーっと暗くなって、通路にピタッピタッと河童の素足の塗れた足型が浮かび上がってくるような気分の濃密な話

・「短歌研究」8月号に掲載した「わが二十の桜」を配布して

体全体で表現となっている黒人の踊り、それよりもっと凄いと思った新野の雪祭りの盆踊り。そういうものが、日本人の伝統の中にある。しかし、最近行ったが心と形があとを消していた。

「戦後の数十年間は非常に大事な時間だった、と思う。だから、僕は生きている間、繰り返し繰り返し、子どものとき、戦争中、戦後の思いを自分で表現出来る形で歌っておこうと思う。」

かく亡せたまひにけりといふこと、

かく亡せたまひにけりといふこと、世の中に満ちて、御弔らひに聞こえたまふ人びとあるを、いとゆゆしく思す。今日の帰さ見に出でたまひける上達部など、帰りたまふ道に、かく人の申せば、
「いといみじきことにもあるかな。生けるかひありつる幸ひ人の、光失ふ日にて、雨はそほ降るなりけり」
と、うちつけ言したまふ人もあり。また、
「かく足らひぬる人は、かならずえ長からぬことなり。『何を桜に』といふ古言もあるは。かかる人の、いとど世にながらへて、世の楽しびを尽くさば、かたはらの人苦しからむ。今こそ、二品の宮は、もとの御おぼえ現はれたまはめ。いとほしげに圧されたりつる御おぼえを」
など、うちささめきけり。

 

衛門督、昨日暮らしがたかりしを思ひて、

 衛門督、昨日暮らしがたかりしを思ひて、今日は、御弟ども、左大弁、藤宰相など、奥の方に乗せて見たまひけり。かく言ひあへるを聞くにも、胸うちつぶれて、
「何か憂き世に久しかるべき」
と、うち誦じ独りごちて、かの院へ皆参りたまふ。たしかならぬことなればゆゆしくや、とて、ただおほかたの御訪らひに参りたまへるに、かく人の泣き騒げば、まことなりけりと、立ち騷ぎたまへり。

式部卿宮も渡りたまひて、

 式部卿宮も渡りたまひて、いといたく思しほれたるさまにてぞ入りたまふ。人の御消息も、え申し伝へたまはず。大将の君、涙を拭ひて立ち出でたまへるに、
「いかに、いかに。ゆゆしきさまに人の申しつれば、信じがたきことにてなむ。ただ久しき御悩みをうけたまはり嘆きて参りつる」
などのたまふ。
「いと重くなりて、月日経たまへるを、この暁より絶え入りたまへりつるを、もののけのしたるになむありける。やうやう生き出でたまふやうに聞きなしはべりて、今なむ皆人心静むめれど、まだいと頼もしげなしや。心苦しきことにこそ」
とて、まことにいたく泣きたまへるけしきなり。目もすこし腫れたり。衛門督、わがあやしき心ならひにや、『この君の、いとさしも親しからぬ継母の御ことを、いたく心しめたまへるかな』、と目をとどむ。

かく、これかれ参りたまへるよし聞こし召して、

 かく、これかれ参りたまへるよし聞こし召して、
「重き病者の、にはかにとぢめつるさまなりつるを、女房などは、心もえ収めず、乱りがはしく騷ぎはべりけるに、みづからもえのどめず、心あわたたしきほどにてなむ。ことさらになむ、かくものしたまへるよろこびは聞こゆべき」
とのたまへり。督の君は胸つぶれて、かかる折のらうらうならずはえ参るまじく、けはひ恥づかしく思ふも、心のうちぞ腹ぎたなかりける。

かく生き出でたまひての後しも、

 かく生き出でたまひての後しも、恐ろしく思して、またまた、いみじき法どもを尽くして加へ行なはせたまふ。
うつし人にてだに、むくつけかりし人の御けはひの、まして世変はり、妖しきもののさまになりたまへらむを思しやるに、いと心憂ければ、中宮を扱ひきこえたまふさへぞ、この折はもの憂く、言ひもてゆけば、女の身は、皆同じ罪深きもとゐぞかしと、なべての世の中厭はしく、かの、また人も聞かざりし御仲の睦物語に、すこし語り出でたまへりしことを言ひ出でたりしに、まことと思し出づるに、いとわづらはしく思さる。

御髪下ろしてむと切に思したれば、

 御髪下ろしてむと切に思したれば、忌むことの力もやとて、御頂しるしばかり挟みて、五戒ばかり受けさせたてまつりたまふ。御戒の師、忌むことのすぐれたるよし、仏に申すにも、あはれに尊きこと混じりて、人悪く御かたはらに添ひゐて、涙おし拭ひたまひつつ、仏を諸心に念じきこえたまふさま、世にかしこくおはする人も、いとかく御心惑ふことにあたりては、え静めたまはぬわざなりけり。
いかなるわざをして、これを救ひかけとどめたてまつらむとのみ、夜昼思し嘆くに、ほれぼれしきまで、御顔もすこし面痩せたまひにたり。

五月などは、まして、

 五月などは、まして、晴れ晴れしからぬ空のけしきに、えさはやぎたまはねど、ありしよりはすこし良ろしきさまなり。されど、なほ絶えず悩みわたりたまふ。
もののけの罪救ふべきわざ、日ごとに法華経一部づつ供養ぜさせたまふ。日ごとに何くれと尊きわざせさせたまふ。御枕上近くても、不断の御読経、声尊き限りして読ませたまふ。現はれそめては、折々悲しげなることどもを言へど、さらにこのもののけ去り果てず。

いとど暑きほどは、

 いとど暑きほどは、息も絶えつつ、いよいよのみ弱りたまへば、いはむかたなく思し嘆きたり。なきやうなる御心地にも、かかる御けしきを心苦しく見たてまつりたまひて、
「世の中に亡くなりなむも、わが身にはさらに口惜しきこと残るまじけれど、かく思し惑ふめるに、空しく見なされたてまつらむが、いと思ひ隈なかるべければ」、思ひ起こして、御湯などいささか参るけにや、六月になりてぞ、時々御頭もたげたまひける。めづらしく見たてまつりたまふにも、なほ、いとゆゆしくて、六条の院にはあからさまにもえ渡りたまはず。

 

姫宮は、あやしかりしことを思し嘆きしより、

 姫宮は、あやしかりしことを思し嘆きしより、やがて例のさまにもおはせず、悩ましくしたまへど、おどろおどろしくはあらず、立ちぬる月より、物きこし召さで、いたく青みそこなはれたまふ。
かの人は、わりなく思ひあまる時々は、夢のやうに見たてまつりけれど、宮、尽きせずわりなきことに思したり。院をいみじく懼ぢきこえたまへる御心に、ありさまも人のほども、等しくだにやはある、いたくよしめきなまめきたれば、おほかたの人目にこそ、なべての人には優りてめでらるれ、幼くより、さるたぐひなき御ありさまに馴らひたまへる御心には、めざましくのみ見たまふほどに、かく悩みわたりたまふは、あはれなる御宿世にぞありける。
御乳母たち見たてまつりとがめて、院の渡らせたまふこともいとたまさかになるを、つぶやき恨みたてまつる。

かく悩みたまふと聞こし召してぞ渡りたまふ。

 かく悩みたまふと聞こし召してぞ渡りたまふ。女君は、暑くむつかしとて、御髪澄まして、すこしさはやかにもてなしたまへり。臥しながらうちやりたまへりしかば、とみにも乾かねど、つゆばかりうちふくみ、まよふ筋もなくて、いときよらにゆらゆらとして、青み衰へたまへるしも、色は真青に白くうつくしげに、透きたるやうに見ゆる御肌つきなど、世になくらうたげなり。もぬけたる虫の殻などのやうに、まだいとただよはしげにおはす。
年ごろ住みたまはで、すこし荒れたりつる院の内、たとしへなく狭げにさへ見ゆ。昨日今日かくものおぼえたまふ隙にて、心ことにつくろはれたる遣水、前栽の、うちつけに心地よげなるを見出だしたまひても、あはれに、今まで経にけるを思ほす。

池はいと涼しげにて、

 池はいと涼しげにて、蓮の花の咲きわたれるに、葉はいと青やかにて、露きらきらと玉のやうに見えわたるを、
「かれ見たまへ。おのれ一人も涼しげなるかな」
とのたまふに、起き上がりて見出だしたまへるも、いとめづらしければ、
「かくて見たてまつるこそ、夢の心地すれ。いみじく、わが身さへ限りとおぼゆる折々のありしはや」
と、涙を浮けてのたまへば、みづからもあはれに思して、

「消え止まるほどやは経べきたまさかに蓮の露のかかるばかりを」

とのたまふ。

「契り置かむこの世ならでも蓮葉に玉ゐる露の心隔つな」

出でたまふ方ざまはもの憂けれど、

 出でたまふ方ざまはもの憂けれど、内裏にも院にも、聞こし召さむところあり、悩みたまふと聞きてもほど経ぬるを、目に近きに心を惑はしつるほど、見たてまつることもをさをさなかりつるに、かかる雲間にさへやは絶え籠もらむと、思し立ちて、渡りたまひぬ。

宮は、御心の鬼に、

 宮は、御心の鬼に、見えたてまつらむも恥づかしう、つつましく思すに、物など聞こえたまふ御いらへも、聞こえたまはねば、日ごろの積もりを、さすがにさりげなくてつらしと思しけると、心苦しければ、とかくこしらへきこえたまふ。大人びたる人召して、御心地のさまなど問ひたまふ。
「例のさまならぬ御心地になむ」
と、わづらひたまふ御ありさまを聞こゆ。
「あやしく。ほど経てめづらしき御ことにも」
とばかりのたまひて、御心のうちには、
「年ごろ経ぬる人びとだにもさることなきを、不定なる御事にもや」
と思せば、ことにともかくものたまひあへしらひたまはで、ただ、うち悩みたまへるさまのいとらうたげなるを、あはれと見たてまつりたまふ。

からうして思し立ちて渡りたまひしかば、

 からうして思し立ちて渡りたまひしかば、ふともえ帰りたまはで、二、三日おはするほど、「いかに、いかに」とうしろめたく思さるれば、御文をのみ書き尽くしたまふ。
「いつの間に積もる御言の葉にかあらむ。いでや、やすからぬ世をも見るかな」
と、若君の御過ちを知らぬ人は言ふ。侍従ぞ、かかるにつけても胸うち騷ぎける。

かの人も、かく渡りたまへりと聞くに、

 かの人も、かく渡りたまへりと聞くに、おほけなく心誤りして、いみじきことどもを書き続けて、おこせたまへり。対にあからさまに渡りたまへるほどに、人間なりければ、忍びて見せたてまつる。
「むつかしきもの見するこそ、いと心憂けれ。心地のいとど悪しきに」
とて臥したまへれば、
「なほ、ただ、この端書きの、いとほしげにはべるぞや」
とて広げたれば、人の参るに、いと苦しくて、御几帳引き寄せて去りぬ。
いとど胸つぶるるに、院入りたまへば、えよくも隠したまはで、御茵の下にさし挟みたまひつ。

 

夜さりつ方、

 夜さりつ方、二条の院へ渡りたまはむとて、御暇聞こえたまふ。
「ここには、けしうはあらず見えたまふを、まだいとただよはしげなりしを、見捨てたるやうに思はるるも、今さらにいとほしくてなむ。ひがひがしく聞こえなす人ありとも、ゆめ心置きたまふな。今見直したまひてむ」
と語ひたまふ。例は、なまいはけなき戯れ言なども、うちとけ聞こえたまふを、いたくしめりて、さやかにも見合はせたてまつりたまはぬを、ただ世の恨めしき御けしきと心得たまふ。
昼の御座にうち臥したまひて、御物語など聞こえたまふほどに暮れにけり。すこし大殿籠もり入りにけるに、ひぐらしのはなやかに鳴くにおどろきたまひて、
「さらば、道たどたどしからぬほどに」
とて、御衣などたてまつり直す。
「月待ちて、とも言ふなるものを」
と、いと若やかなるさましてのたまふは、憎からずかし。「その間にも、とや思す」と、心苦しげに思して、立ち止まりたまふ。

「夕露に袖濡らせとやひぐらしの鳴くを聞く聞く起きて行くらむ」

片なりなる御心にまかせて言ひ出でたまへるもらうたければ、ついゐて、
「あな、苦しや」
と、うち嘆きたまふ。

「待つ里もいかが聞くらむ方がたに心騒がすひぐらしの声」

など思しやすらひて、なほ情けなからむも心苦しければ、止まりたまひぬ。静心なく、さすがに眺められたまひて、御くだものばかり参りなどして、大殿籠もりぬ。

 

・葛城一言主:善事(よごと)も一言、悪事(まがごと)も一言

東の山之辺の道、西の山之辺の道(葛城山脈の麓)
歩いて考えながら、その思いを短歌の形で手帳に書き付け、帰ってきてから推敲して磨きをかける。いい歌ができるのは間違いない。

・道行ぶり

コンテンツ名 源氏物語全講会 第153回 「若菜下」より その11
収録日 2011年7月23日
講師 岡野弘彦(國學院大學名誉教授)

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