柏木 (かしはぎ)

ことならば馴らしの枝にならさなむ葉守の神の許しありきと 夕霧

柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿の梢か 落葉宮

・歌の背景
光源氏四十八歳。亡き柏木への思いにしずむ落葉宮を見舞う夕霧はその様に心をうたれ思わず歌を贈る。しかし、夫を偲ぶ落葉宮はその気持ちを拒む。
・講義より
「葉守の神」というのは、『枕草子』の中にも、「かしは木、いとをかし。葉守の神のいますらむもかしこし」という言葉が出てきますけれども、その柏木の木には葉守の神が木の守護霊として宿っているというふうなのは、当時の人々の間に普遍的に感じられていたことなんですね。その枝を交わし合っているということから、連理の枝という風な連想、そして葉守の神という連想が重なっていくわけでしょう。

ことならば馴らしの枝にならさなむ葉守の神の許しありきと

できることなら連理の枝になりたいものだな、葉守の神様のお許しがあったという、そういう気持ちになって。葉守の神がお許しくださったという気持ちで枝を交わし合いたいものですね。

柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿の梢か

柏木にたとえ葉守の神がいらっしゃらないとしても、ほかの人をならしてよい、近づけてよい、この宿の木の梢でありましょうか。つまり夕霧のちょっとこの無遠慮な言い方に対して、「ことならば馴らしの枝にならさなむ」というふうに言っている、それを押さえた形の歌ですね。柏木に葉守の神はいらっしゃらないとしても、よその人を近づけならしてよいこの宿の木の梢でありましょうか。枝差し交わしてなどと連理の枝の気分でおっしゃっているけれども、そんなこの宿の木の梢でありましょうか。

横笛 (よこぶえ)

露しげきむぐらの宿にいにしへの秋に変はらぬ虫の声かな 一条御息所

横笛の調べはことに変はらぬをむなしくなりし音こそ尽きせね 夕霧

・歌の背景
光源氏四十九歳。夕霧の一周忌の供養も終わり、御息所(落葉宮の母)は、柏木の遺愛の笛を夕霧に贈る。
・講義より

露しげきむぐらの宿にいにしへの秋に変はらぬ虫の声かな と、聞こえ出だしたまへり。

露のびっしりと置いておりますむ、このむぐらの生い茂ったわびしい宿に、かつての、昔の秋と変わらないにぎやかな虫の声がしております。そのようにあなた様がよくお訪ねくださいましたという思いを込めて、この歌を夕霧に差し出しなされた。

横笛の調べはことに変はらぬをむなしくなりし音こそ尽きせね

この横笛の調べは昔も今も格別に変わったことがありませんものを、「むなしくなりし音こそ尽きせぬ」、変わっているのは持ち主が亡くなってしまって、その亡き人の奏でる見事な音色は尽きることはございません。持ち主は亡くなってしまいましたけれども、あの人が奏でたすばらしい音色は尽き果てることはございません。この横笛に伝わっていくことでございましょう。残っていくことでございましょう。

鈴虫 (すずむし)

おほかたの秋をば憂しと知りにしをふり捨てがたき鈴虫の声 女三宮

心もて草の宿りを厭へどもなほ鈴虫の声ぞふりせぬ 光源氏

・歌の背景
光源氏五十歳。源氏は女三宮の出家を嘆き、来世での同じ蓮の宿りを願うが、女三宮は煩わしく思う。女三宮の住まいの前庭に秋の風情を増すために、源氏は鈴虫を放つ。十五夜の夜女三宮は歌を詠む。
・講義より

おほかたの秋をば憂しと知りにしをふり捨てがたき鈴虫の声

季節の秋と、それから人に飽く、心飽くという掛け詞になって使われている歌ですね。大方の秋、そして大方の思いの飽き、心飽きておしまいになる。そのお心を憂きものだとつくづくと知りましたものを、なお振り捨てがたく鳴く鈴虫の声でございます。あなた様の大方のお心の飽きを私はつくづくと憂きものだと思い知りましたが、その心に振り捨てがたく、「振る」と「鈴」とをまた縁語で響かせているわけですけれども、その心を振り捨てがたく鳴く鈴虫の声でございます、というふうな思いの歌ですが。まぁ、どうということはないけれども、やっぱりだんだん歌がうまくなってこられているということはわかりますね。

心もて草の宿りを厭へどもなほ鈴虫の声ぞふりせぬ

あなたは、ご自分の心から、この世を草の宿りというふうにお厭いになりますが、やはりその鈴虫の声のように、鈴虫の「鈴」と「ふり」を響かせているわけですけれども、あなたは美しく若々しく決してお年を召したという感じがいたしません。ご自分の心から、この世を草の宿り、仮の宿りというふうなのとよく似た意味ですね。草の宿り、頼りにならない仮の宿りだとお厭いになって出家しておしまいになりましたが、やはりそのあなたの鈴虫のような声は、変わりなく若やかにお美しくいらっしゃいます。

夕霧 (ゆふぎり)

山里のあはれを添ふる夕霧に立ち出でむ空もなき心地して 夕霧

山賤の籬をこめて立つ霧も心そらなる人はとどめず 女二宮

・歌の背景
光源氏五十歳。物の怪に悩んだ御息所は娘の女二宮(落葉宮)と小野の山荘に移る。夕霧は山荘まで訪れ、陀羅尼を唱えたりする女二宮の様子に思いをよせ一夜の宿りを乞う歌を詠む。
・講義より

山里のあはれを添ふる夕霧に立ち出でむ空もなき心地して と聞こえたまへば、

ただでさえあはれを感じさせるこの山里の、さらに深いあはれを添える夕霧の様子に、おいとまをして立ち去ろうと思う気持ちも、とてもいたしません、思いがしきりでございまして、と申し上げなさると、

山賤(がつ)の籬(まがき)をこめて立つ霧も心そらなる人はとどめず

山賤(がつ)の家の籬(まがき)をこめて深く立ち込める霧も、心のそらでいらっしゃるお人が出で立たれるのをとどめることはいたしませんでございましょう。どうぞお勝手に。

御法 (みのり)

絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを 紫の上

結びおく契りは絶えじおほかたの残りすくなき御法なりとも 花散里

・歌の背景
光源氏五十一歳。紫の上は容態がすぐれず、出家を望んでも叶わず、法華経の法要をとりおこない、その法要におとずれた明石御方と歌をかわし、別れ際には花散里とも別れを惜しむ歌をお互いに取り交わした。
・講義より

絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを

紫の上の思いのこもった歌ですね。私にとって、「絶えぬべき御法」、この世の最後の仏への法要でありましょうが、それによって、あなたと結ばれます世々の契り、この世ばかりではなくて次の世までの契り、来世までの世々の契り、と信頼せられることです。この私にとっては、これが世の最後の法要でありましょうが、それによって結ばれます、あなたとの世々の契りが信頼せられることです。次の世までの契りが信頼せられることです、というふうな歌ですね。

結びおく契りは絶えじおほかたの残りすくなき御法なりとも

今回の法要で結ばれますありがたいご縁は、絶えることがございますまい。「おほかたの残りすくなき御法なりとも」、三句以下は少し気分が乗ってこない感じのする言い方ですが、今回のこの盛大な法要によって結ばれます仏とのありがたいご縁は、絶えることがございますまい。つまりあなた様のために催された今回の法要は格別のものでございましたということを一、二句で言っているわけです。そこからちょっと飛躍があるので、「おほかたの残りすくなき御法なりとも」のところがこの歌をちょっとあいまいにしているわけです。「おほかたの」、一般の、あるいは通り一遍の、残り少ない祈りでございましても、法要でございましても、それなりに御法はございますものを。もう一遍上へ返っていって、あなた様のためのあの法要はすばらしくて、それによって結ばれます次の世とのご縁は絶えることがございますまいというふうにでも少し補っておかないと、この花散里の歌はちょっと弱いですね。

幻 (まぼろし)

大空をかよふ夢にだに見えこぬ魂の行方たづねよ 光源氏

・歌の背景
光源氏五十二歳。紫の上が亡くなり、春が過ぎ、夏が過ぎ、神無月になった。源氏はこの世にはない亡き人のことを思ってもの思いに沈んでいる。出家する決心をすると、御文なども皆焼かせてしまうのだった。
・講義より

大空をかよふ夢にだに見えこぬ魂(たま)の行方たづねよ

二句で切れている二句切れですが、「大空をかよふ幻」。幻は、桐壺の巻と響き合っているわけですけれども、長恨歌の連想から出ている幻術使いですね。楊貴妃の魂を求めて、魂の世界へたどっていく幻術使い。それが日本では専ら幻(まぼろし)と言っているわけです。この歌の幻は「大空をかよふ幻」ですから、大空を自由に飛び交い追うことのできる幻術使い、幻術師、「夢にだに見えこぬ魂の行方たづねよ」、会いたいと思っても、自分の夢にすら出てこない亡き人の魂の行方を訪ね求めていってくれよ。

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