第157回 「若菜下」より その15
途中で退出した柏木は、大層重い病気で臥してしまい、二の宮に別れて、泣く泣く父の屋敷へ移った。朱雀の五十の賀は延びに延びて、歳末の二十五日に行われた。最後に、折口信夫の『源氏物語』について、解説する。
講師:岡野弘彦
心地かき乱りて堪へがたければ、
心地かき乱りて堪へがたければ、まだことも果てぬにまかでたまひぬるままに、いといたく惑ひて、
「例の、いとおどろおどろしき酔ひにもあらぬを、いかなればかかるならむ。つつましとものを思ひつるに、気ののぼりぬるにや。いとさいふばかり臆すべき心弱さとはおぼえぬを、言ふかひなくもありけるかな」
とみづから思ひ知らる。
しばしの酔ひの惑ひにもあらざりけり。やがていといたくわづらひたまふ。大臣、母北の方思し騷ぎて、よそよそにていとおぼつかなしとて、殿に渡したてまつりたまふを、女宮の思したるさま、またいと心苦し。
ことなくて過ぐす月日は、
ことなくて過ぐす月日は、心のどかにあいな頼みして、いとしもあらぬ御心ざしなれど、今はと別れたてまつるべき門出にやと思ふは、あはれに悲しく、後れて思し嘆かむことのかたじけなきを、いみじと思ふ。母御息所も、いといみじく嘆きたまひて、
「世のこととして、親をばなほさるものにおきたてまつりて、かかる御仲らひは、とある折もかかる折も、離れたまはぬこそ例のことなれ、かく引き別れて、たひらかにものしたまふまでも過ぐしたまはむが、心尽くしなるべきことを、しばしここにて、かくて試みたまへ」
と、御かたはらに御几帳ばかりを隔てて見たてまつりたまふ。
「ことわりや。数ならぬ身にて、
「ことわりや。数ならぬ身にて、及びがたき御仲らひに、なまじひに許されたてまつりて、さぶらふしるしには、長く世にはべりて、かひなき身のほども、すこし人と等しくなるけぢめをもや御覧ぜらるる、とこそ思うたまへつれ、いといみじく、かくさへなりはべれば、深き心ざしをだに御覧じ果てられずやなりはべりなむと思うたまふるになむ、とまりがたき心地にも、え行きやるまじく思ひたまへらるる」
など、かたみに泣きたまひて、
とみにもえ渡りたまはねば、
とみにもえ渡りたまはねば、また母北の方、うしろめたく思して、
「などか、まづ見えむとは思ひたまふまじき。われは、心地もすこし例ならず心細き時は、あまたの中に、まづ取り分きてゆかしくも頼もしくもこそおぼえたまへ。かくいとおぼつかなきこと」
と恨みきこえたまふも、また、いとことわりなり。
「人より先なりけるけぢめにや、
「人より先なりけるけぢめにや、取り分きて思ひならひたるを、今になほかなしくしたまひて、しばしも見えぬをば苦しきものにしたまへば、心地のかく限りにおぼゆる折しも、見えたてまつらざらむ、罪深く、いぶせかるべし。
今はと頼みなく聞かせたまはば、いと忍びて渡りたまひて御覧ぜよ。かならずまた対面賜はらむ。あやしくたゆくおろかなる本性にて、ことに触れておろかに思さるることありつらむこそ、悔しくはべれ。かかる命のほどを知らで、行く末長くのみ思ひはべりけること」
と、泣く泣く渡りたまひぬ。宮はとまりたまひて、言ふ方なく思しこがれたり。
大殿に待ち受けきこえたまひて、
大殿に待ち受けきこえたまひて、よろづに騷ぎたまふ。さるは、たちまちにおどろおどろしき御心地のさまにもあらず、月ごろ物などをさらに参らざりけるに、いとどはかなき柑子などをだに触れたまはず、ただ、やうやうものに引き入るるやうに見えたまふ。
さる時の有職の、かくものしたまへば、世の中惜しみあたらしがりて、御訪らひに参りたまはぬ人なし。内裏よりも院よりも、御訪らひしばしば聞こえつつ、いみじく惜しみ思し召したるにも、いとどしき親たちの御心のみ惑ふ。
六条院にも、「いと口惜しきわざなり」と思しおどろきて、御訪らひにたびたびねむごろに父大臣にも聞こえたまふ。大将は、ましていとよき御仲なれば、気近くものしたまひつつ、いみじく嘆きありきたまふ。
御賀は、二十五日になりにけり。
御賀は、二十五日になりにけり。かかる時のやむごとなき上達部の重く患ひたまふに、親、兄弟、あまたの人びと、さる高き御仲らひの嘆きしをれたまへるころほひにて、ものすさまじきやうなれど、次々に滞りつることだにあるを、さて止むまじきことなれば、いかでかは思し止まらむ。女宮の御心のうちをぞ、いとほしく思ひきこえさせたまふ。
例の、五十寺の御誦経、また、かのおはします御寺にも、摩訶毘盧遮那の。
折口信夫と「若菜の巻」
・万葉学者として世に出た折口信夫
・「類化性能」と「別化性能」(折口信夫『古代研究』追ひ書き)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46948_26566.html
・「反省の文学 源氏物語」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46384_26542.html
・「伝統・小説・愛情」
第130回 藤裏葉-その3- 12. 日本の文学と文学の研究者の心のあり様 参照
https://angel-zaidan.org/genji/130/#title-12
◇戦後、海老蔵が光源氏をやったときに、折口は、演劇評論家の戸板康二さんに「海老蔵に、源氏を演じるときには天皇になったつもりで演じなさい、そう言ってやって」と言伝てを託した。
◇折口信夫の文学論
◇日本人の神
◇鈴木金太郎、折口春洋、加藤守雄
◇折口信夫の「愛の掟」
◇指圧を習う
コンテンツ名 | 源氏物語全講会 第157回 「若菜下」より その15 |
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収録日 | 2011年11月19日 |
講師 | 岡野弘彦(國學院大學名誉教授) |
平成23年秋期講座 |
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